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35番④ 人はいさ心も知らず          紀貫之

花山周子記

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 紀貫之    〔所載歌集『古今集』春上(42)〕

歌意 あなたは、さあどうだろう、人の気持ちは私にはわからない。昔なじみの土地では、梅の花だけが昔と同じ香りで匂うのだったよ。

『原色小倉百人一首』(文英堂)


さて、この歌も漢詩からの発想の摂取が指摘されている。

年年歳歳花相似、 年年歳歳 花ハ相似タリ
歳歳年年人不同、 歳歳年年 人ハ同ジカラズ

劉廷芝(651ー679)の詩である。

直訳の必要もないほどシンプルな詩だけど直訳すれば、「毎年毎年花は相似た姿である 毎年毎年人は同じではない」ということで、わたしはこのかたちのままで味わいたいが、ほとんどの書物ではもっと砕いて、花の姿は変わらないが人は移り変わっていく、と意訳している。ある種の普遍的な感慨である。劉廷芝は7世紀の人だから当時の歌人にとっても古典的な詩であったのかもしれない。ただ、わたしはむしろ、古今集仮名序の中でも紹介されている小野小町の、

色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 小野小町

の歌と貫之の歌とを並べてみたいような気がしている。この歌の意味は、色に見えずに移り変わってゆくものこそは人の心の花であるのさ、という感じで、ここには、(実際の草花の移り変わりは目に見えるけれど)、という共通認識が土台にあって、「色見えで」という大胆な初句を可能にしている(この「色見えで」の「で」については濁点を振るかどうかの議論があるようである)。

あるいは、

9番 花の色はうつりにけりないたづらにわが身世にふるながめせしまに 小野小町

も、花の移ろいと重なる人の移ろいが主題となっていて、小野小町の発想のひとつの型が見えるような気がする。

この小町の二首は移ろうものは異なるけれど、どちらもそれを残念がっている歌で、「ながめせしまに」なんかは本当にショックを受けている感じがする。

ひるがえって、貫之の歌はどうであろうか。

人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける

人の心なんて知らないよ。ふるさとには花こそが昔の香ににおっているのだ―と、人の心の移り変わりに極めて冷淡な言いぶりでもって、変わらずにある花を愛でる。

色見えで移ろふものは世の中の人の心の花にぞありける 小町 
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける 貫之

並べてみるとよくわかるのだが、貫之の歌は小野小町の歌とほとんど言っていることは同じでありながら、その詠嘆の対象によって内容が逆転している。
この二首を並べると見事な応答歌が完成しないだろうか。

(つづく)

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