マイアーカイブス4 窮鼠猫を噛む
今日も風呂の中である。
突然、古い映像が解凍された。
小学校6年生の「帰りの会」の場面である。
兆しはあった。隣の班のチョロきちが、私の方をチラチラ見ながら同じ班の連中と話をし ている。決して好意的な眼差しでない。これは、何かあるなと感じていた。当時の「帰りの会」が、日本中の小学校でどのような形で進められていたのかは知る術もない。しかし私のこの頃のそれは「帰りの会で言うたるからな」に象徴されるように、その日 にあったことで誰かに嫌なことをされたことをクラス全員で共有する場であった。共有とは聞こえはいいが、共有から糾弾になるのが常であった。今で言うなら公開処刑である。
「なぜそんなことをしたんですか」
「前にも同じことをしましたね」
「前に謝ったのは嘘だったのですか」
なんか、今でもこんなセリフを覚えている。
私は、この小学校に小学4年生の三学期に転校してきた。色々家庭の事情もあったが父が教 育環境のいいところに引っ越して私を更生させようとしていたことは後で知った。それほど私 は「荒れて」いた。学級崩壊とか、そんな言葉は微塵もなかった時代である。学校様、先生 様で、先生にしばかれたと言ったら家でもう一度説教なりゲンコツなりあった時代である。
今でも覚えているのは、私は、小学校四年生なのに、九九が言えなかった。確か、三年生で 覚えさせられた記憶があるにも関わらずだ。トイレに父が手書きの表まで作ってくれていたことも記憶にあ る。しかし、九九を使って色々な計算をする四年生の授業をほとんどまともに受けていなかった。いわゆる悪ガキ軍団の2番手で、教室で座って授業を受けていた記憶があまりないのである。転校した学校は、とても落ち着いた雰囲気の学校で、みんな座って先生の方を見て授業を受けていた。
そういえばこんなこともあった。授業について行くことが困難でいつも鉛筆やマジックペンを噛んでいた私。ある日ペンを噛んでいたら、知らないうちにそのペンのキャップに思いっきり唾液が溜まっていて、それを隣の女の子のノートにぶちまけてしまったのだ。流石に申し訳ないと思い、薄紅色のなんとも言えない気持ちの悪い色の液体を慌てて体操服の袖で拭いたことが蘇る。ハンカチなんぞは持ち合わせていなかったからだ。
私は、のちに小学校の教員になるのだが、この時の担任の先生は、私のことをどんなふうに思っていたのだろうか。とんでもないやつが入ってきよったとか感じていたことだろう。優しくも厳しい女性教諭だった。自分で言うのもなんだが、「地頭」はそう悪くはなかったのだろう。やり出せば覚えは早かったよう に思う。漢字などは不真面目であった学習期間というか空白を埋めるのにそう時間はかからなかったように思う。
4年生の3学期に面積という学習単元があった。長方形は「縦×横」、正方形は「一辺×一辺」という公式さえ覚えれば答えが出せる問題ばかりが続いた。九九を覚えていなかった私は、丸を描いたり、四角のタイルをかいて数を数えて答えを出していた。しかし、ある日、ふと思い出した。こんなめんどくさいことしなくても九九っていうのがあって一発で答えが出せるやつあったんちゃうん。この時、私は、自分で九九を発見したような気がして嬉しかった。なんと便利なものがあるんだと実感できた。思い出すのは早かった。
事件が起こった。単元のテストで80点を取ったのだ。そりゃそうだ、九九ができれば縦と 横をかけて答えに小さい2を書いたらいいだけだ。流石に応用問題みたいな難しめの問題はできなかったが、80点を取ったことがとても誇らしく、自分もやればできるとこの時思った。
長くなったが、こんな落ちこぼれだった私は5年生に進級しある男性教諭に出会う。そして 学ぶことの楽しさを知ることになる。グングン成績が上がり、できなかったことがどんどんで きるようになった。それは、漢字や計算だけでなく、音楽のリコーダーや体育の跳び箱や水 泳、鉄棒にかけっこにまで及んだ。いつの間にか、私は、自身満々の「できる子」になってい た。
忘れもしない。5年生の3学期、私は、初めて学級委員という当時は「選ばれし者」しかなれないクラスのリーダー役に立候補しすごい票を集めて当選するのである。選挙が普通に行われて いた時代である。学校から、家までの決して短くはない道のりを駆け足で帰り、玄関を開けるなり、当時いつも家にいた父親に「僕、学級委員になってん」と報告したことが昨日のことのように映像とな る。
しかし、「調子に乗る」というのはこういうことなのか、大人になってからこの頃を振り返 ると自分がいかに、偉そうに成り上がっていたのか恥ずかしく思い出す。少し前までは「でき ない子」チームだったことを忘れてしまったのか、平気で友達を馬鹿にするような態度をとっ てしまっていた。成り上がりの傍若無人な振る舞いがとうとう表面張力の最後の一 滴を落とすことになったのだ。
長くなったが、これがこの帰りの会の背景である。
何を指摘されたのかはよく覚えていない。きっと大したことではなかったと思う。掃除用具
入れの扉のところにチョロきちを押し付けたかなんかそんなことだったと思う。
調子に乗っていた成り上がりの私をよく思っていなかったクラスメイトたちが一斉に私に集中砲火を浴びせる。
私は、すぐに謝った。でも、それでは許してくれないモードだった。そう、この頃の小学生は「泣くまで」が一つの区切りだったように思う。私は、友達を泣かせることは多々あったが、自分が泣くなんてことはまずなかった。ましてやクラス全員のいる前で涙を流すなんて想像したこともなかった。しかし、私の涙腺が崩壊するのにそう時間は掛からなかった。私は、堪えきれず泣いた。それも、声をあげて嗚咽した。
すると、この問題を提起したチョロきちが、「もういいです」と言った。その時だ。いつも 私と一緒に行動を共にしていた友人のごうさんがすかざす挙手し意見した。「泣いたら、いいんですか。泣かすためにやったんですか」私は、このごうさんの援護射撃? で余計鳴き声が大きくなった。
この辺りで担任の先生の出番となったように思う。何を隠そう、私を教職の道へいざなってくれたのはこの先生である。この時は、確か「窮鼠猫を噛む」という話をされたと記憶している。元々中学校の国語の教員であったこの先生は、実生活で起こったリアルな出来事と繋げてことわざを教えてくれたものだった。要は、やりすぎたらダメということの例えなのだろう。
私は、この時、私を泣かせた連中が私を追い込み過ぎて返って多くのクラスメイトの反感を 買う形になり、どっちが悪いのかわからないような雰囲気になったことをおっしゃっているの かと思っていた。しかし、大人になって考えてみると、私自身も調子に乗り過ぎて多くの友人 たちに嫌な思いをさせていた、このこともやり過ぎていたのだということなのではないかと気 づくようになった。私もチョロきちもネズミであり猫であったわけだ。
私は、チョロきちとはその後もよく遊び、関わりの深い関係を継続して行った。お互いの家を行き来するくらい の仲の良さであった。だから、言ってくれたのではないかとも美しすぎるかもしれないが、思えるようになった。
チョロきちはその後、どうしているのだろう。私を助けてくれたごうさんともずっと会って いない。小学校の教員になった時、誰かを吊し上げるような帰りの会だけはしないようにと思って、「今日、嬉しかったこと」「良かったこと」とか、そんな振り返りの場にしてきたのもこの経験があるからだ ろうか。
ただ、「調子に乗る」というこの私の性分は65歳を迎えた今も「終わって」ないように思う。
そろそろのぼせてきたので風呂から出よう。
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