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社会的養護に込められた想い

物心つく頃から、自問自答を繰り返してきた

「社会的養護における『社会』とは何を意味するのだろう?」
「なぜ私はこの環境に置かれているのだろうか?」
長年の疑問に対する答えの糸口が、今になってようやく少し見えてきたように感じます。

子どもは社会で育てるもの?

子育てを始めてから、よく耳にする言葉があります。「子どもは社会で育てるもの」という考え方です。正直なところ、最初はこの言葉に違和感を覚えていました。同時に、「少子化対策に貢献」という表現にも何か引っかかるものがありました。

現実を見ると、社会で子どもを育てると言いながら、税金は上がる一方で給与は減る。周りの人々も、子どもに積極的に関わってくれるわけでもなく、ただ遠くから見守るだけ。時には、自分の都合のいいように意見を言うだけの人もいます。

私自身、国や周りの人に何かを求めるつもりはありませんでした。子どもを産んだのは、少子化対策のためでもありません。ただ純粋に、自分の子どもが欲しかっただけです。

頼ることの難しさ

振り返ってみると、私は一人で子育てをしているような気持ちになっていました。人に頼ることが苦手で、周りの助けを上手く受け入れられずにいたんです。特に私のような社会的養護出身者にとっては、この感覚が強いかもしれません。

時々、周りの人たちと価値観の違いを感じることがあります。国や親族からの支援を当たり前だと思っている人や、子どもを産んだことで少子化対策に貢献したと誇らしげに語る人を見ると、その自信はどこから来るのだろうと不思議に思っていました。

しかし、ふと立ち止まって考えてみると、私自身も社会に育てられた一人なのだと気づきました。ファミリーホームで育った私は、国の制度や見知らぬ人々の善意に支えられてきました。今、普通に仕事をして自分の子どもを育てられているのも、そのおかげなんです。

社会的養護の本当の意味

善意に救われ、社会に育てられた私は、今自分の子どもを産み育てることができています。そしてその子どもは、泣いていても笑っていても、そこにいるだけで私を救ってくれる。くるくると変わる表情を見つめていると、具体的に何かを望む必要はなく、ただそこにいるだけで力になってくれるんだと感じます。

これこそが「社会で育てる」という意味なのかもしれません。見守ることの大切さ、命の持つ素直さ。子どもとの関係を通じて、新しい形の愛や信頼を私自身少しずつ学んでいるような気がします。

結局のところ、子どもは親のものでありながら、同時に社会全体で見守る存在なのでしょう。私にできることは限られているかもしれませんが、自分なりの方法で子どもたちの成長を支援していきたいと思っています。私自身も、子どもと一緒に成長して、新しい形の家族の絆を作っていきたい。

そして、いつか私も子どもにとって温かく見守る存在になれたらいいなと思っています。
皆さんはどう思われますか?

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

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