まずは自分から。慈しみを溜める自分のコップ。

 シャンパンタワーの法則や慈しみを注ぐ三層のコップなどで説明されている「まずは自分を満たす」ということ、自分を大事にするということ。私はそれが苦手で、できてなかったなと思った。そして、「自分のコップってどんなのだろう?」「自分のコップはそもそもあるんだろうか?」そう思った。
 そうしたら、本当にコップを作りたくなった。紙粘土で作るというのはどうだろう?と思い、100円ショップに行き紙粘土を購入した。紙粘土を捏ねながら「どんなコップにしようか?」「紙粘土だからコップというより器だな」いろんな考えが頭に浮かぶ。「これは、いいかも知れない。」ノートに向かって思い浮かんだことを書き連ねるのもいいが、紙粘土に向かい一心に捏ねながら浮かんでくる想いに向かい合うのが心地よい。
 まず、既存のコップを型にして作ってみようと思った。食器棚にある中で良さげなコップを選び、クッキングシートで包みその上に紙粘土を塗りつけていく。表面が凸凹しているので、凹みに粘土を足して、出っ張りは削った。段々と表面が滑らかになっていく。これはまるで、人間の成長のようだ。足りないところは足せばいい。出過ぎたところは削るか同じ厚さになるまで凹み部分を足すかすればいい。軽く乾燥させるとひび割れもできたが、ひび割れは埋めればいい。紙粘土を足したり削ったり、濡れた布で表面を整えたり、器を形作りながらどんどん楽しくなっていった。こんな時間を過ごすのは何時ぶりだろう。ながらく忘れていた。私は物を作ることは楽しくて好きだった。手作業は私を元気にするんだった。

 そうして出来上がったのが、この器だ。この仕上がりを見て私は、「大きすぎる」「見てくれはいいけど、自分にしっくりこない。」「見栄っ張りで、承認欲求ばかりが強すぎる自分みたい。」と納得がいかない気持ちでいっぱいになった。だけど、「多分、これは今までの自分だ。」「見栄を張って無理をして、求めるものが多過ぎて、自分で満たすことが出来ずに苦しんだ自分だ。」そう思った。これはこれでいいとして、これからの私にとって必要な「自分の慈しみを溜める器」ではないと思って作り直すことにした。
 どんなふうに作るか考えて、手捻りで作っていくことにした。大きさは?形は?考えては作り、なんか違うと思えば潰して練り直してまた作る。1日では出来ず、濡れた布に紙粘土を包んで一晩寝かせ、また翌日に作る。また潰す、捏ね直す、また作る。納得ができるまで作り直した。
 そして、なんとなく形ができたのが、これ! ちょうど両手で包み込めるサイズ。
まだまだ凸凹だし、不恰好だけど、「これが今の自分!」としっくりきた。凹みを埋めて出っ張りを削って、表面を滑らかにしていこう。同じように、自分自身も足りないところを足して、要らない部分は手放して、優しく包み込んで表面を滑らかに仕上げていこう。

 シャンパンタワーの法則とか慈しみを注ぐ三層のコップの話は、比喩表現なのは分かっている。実際にコップや器を作る必要はない。けれど、私の頭では、言葉としては理解は出来るけれど、実感として分かりにくかった。実際にコップを作ろうと思い立ち、作ってみて、作っては自分で眺めて気持ちと照らし合わせて、これでいいのか?違うのか?を確認しながら、紙粘土と向き合っている時間は、そのまんな自分と向き合った時間だったような気がする。
 焦らずゆっくりとか、そのまんまの自分を認めてとか、…、ぼんやりだけど、こういうことなんだろうなと思うことができた。

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