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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(16)


   美津には、実家の履物屋に兄と妹が一人ずついた。兄の小三郎こさぶろうは三十も過ぎたのに、女房も貰わず、履物屋なんぞもう古いと嫌がって家業を継ぐ気はまるでなく、両親も廃業を考える日々であった。年子の兄は、堅実で締り屋の美津とはまるで正反対の性格で、現状に満足していることはついぞなく、いつも夢みたいなことばかり嘯いている。その彼の目に、妹の夫の営む「正栄社」の貿易という仕事は、初めて魅力的に映ったようである。
「おい美津よ、駒さんにうまいことゆうて、潜り込ませてくれんかの、貿易は俺に合うような気がするんじゃ」
   などとしつこくせがむので、美津が仕方なく駒蔵に兄の希望を話したところ、「さよか。ほな、岡坂の武一に預けるわ。来たらええがな。人が足らんので困っとんやさかい」
  と、駒蔵は二つ返事で引き受け、預けられた武一もそれはそれはと喜んで、小三郎の正栄社への就職はあっさり決まってしまった。さらに運のいいことに、現在ブラジル行きの船が出港を待っている状況だという。
「兄さんが商売のお役に立つんかどうか、さっぱりわからしまへんで」
   小さい時から妹たちを可愛がってくれた兄が、自分に合った仕事を見つけてくれれば何よりなのだが、ただでさえ糸の切れた凧みたいな男を外国に行かせてほんまに大丈夫やろか、と美津は不安を隠せない。駒蔵は心配しぃな、と美津を慰めて、「小三郎はんは履物屋っちゅう地道な商売には向かん、ゆう気が前からしとった。この時代に大事なことは、あの無鉄砲さやと思うで。そや、武一と似たとこがあんねん」
   駒蔵は本心からそう言ったが、慎重な美津にそんな言葉が響くわけもない。駒蔵が神戸の西洋骨董の店で見つけてきた地球儀でブラジルという国を探して、こんな地球の反対に行ってしもたらもう二度と会えへん、と心配は増すばかりなのだった。
   ほとんど何の準備をする時間もなく、小三郎は慌ただしく神戸港からブラジル行きの船に乗った。前夜、駒蔵は武一とともに、新地で一晩中好きなだけ酒を飲ませ、商売についての心得を教えたのだという。現地で商品開発調査をするというのが一応の業務命令で、帰国は「数年後」としか決まっていなかった。駒蔵は、「御寮人さんの兄」の見送りに社員を大勢派遣し、両親や妹のはまも、その一行に加えてくれた。
   心配はいらん、男を上げて帰ってくると小三郎は豪語したが、自分を大きく見せたがる兄の性格を美津は知り尽くしていた。荷を積んだ巨大な貿易船が小さくなって、やがて視界から完全に消えてなくなるまで、はまの手を強く握ったまま美津はその場を動かなかった。

   まもなく、美津は臨月になった。膨らんでいく腹にさほど関心もなさそうにしていた駒蔵が、今度こそはと期待しているのが美津にはわかったけれど、間違いなく男だと直感が告げていた。案の定、生まれてきた男の子を胸に抱いた時、遠いブラジルにいる兄のことがふいに思い出され、美津はなぜかもう会えないと確信した。抱いた子の重さと温かさとが身体中に染みいった。可愛い子。この子が私の末っ子。美津はそう心に決めた。体も悲鳴をあげていた。
   六人目にして初めて、美津は名前を自分で付けた。はたして駒蔵は男子の名前を考えていなかったので、その名は何の反対もなく受け入れられた。体は小さかったのに、これまでで一番重いお産だった。元気な子に育つように「勇」と名付けた。

    明治三十六(1903)年三月から七月までの五か月間、大阪の天王寺公園にて「第五回内国勧業博覧会」が開催されている。日清戦争の勝利によって各企業が活発に市場を拡大していたことや、鉄道網がほぼ全国に行き渡ったこともあって、敷地も会期もこれまでを上回る規模になった。建物も仮設ではなく漆喰塗りで建てられ、第二会場として堺市の大濱公園に水族館も造られた。
   それまではなかった、英、独、米、仏、露をはじめ十数か国の商品も陳列され、その後の「万博」を大いに意識した博覧会でもあった。本来目的としていた国内の産業振興から、入場者の消費等による経済効果に力点が置かれ、実際に大阪市には莫大な経済効果があった。会期中、四三〇万人以上が会場を訪れることとなった。

   さて、かように大きな注目を浴びたこの博覧会に、新会社・廣谷鋳鋼所は「傳(伝)動機 及 機構」部類に、以下の四品を出品した。いずれも愛之助がこれまで改良を続け、廣谷鋳鋼所にて製品化に至ったものである。

・鋳鋼スクルフ(スクリュー)附 羽長二尺九寸二分ノ一
・同 小形スクルフ 直径四寸
・同製 運搬車用車輪 直径九寸四分ノ三
・鋳鋼螺(旋)歯車 直径四寸二分ノ一

   このうち、鋳鋼製の車輪は三等賞を獲得した。車輪と小型製品に特徴があり、客の要望にもきめ細かく応える、が当社のモットー、と愛之助は宣伝にも力を入れ、国のお墨付きも得た製品は増産へ結びついた。しかしそれ以上に、愛之助の野心を刺激したものがある。この時すでに、鋳鉄管の製造で大阪に名を轟かせていた難波の「久保田鉄工所」である。
    創業者の久保田権四郎ごんしろうは、広島・因島の貧しい兼業農家から身一つで大阪へ飛び出し、鋳物業でその身を立てたまさに立志伝中の人物。それまでも「久保田の鉄管」「鉄管の久保田」と声価を上げていたが、その時の出品物は、観覧者の目を文字通り奪った。
「ここで四六インチの直菅を出してきはったんや。東京でも四二インチまでしかでけへん。大阪はええとこ三六インチ、それも全部輸入管やで。それが、自社製で、四六インチでっせ」
 細かい数字は大してわからない駒蔵に、技術者である愛之助は、興奮してその凄さを報告した。商品の区分けが違うため同じ会場ではないが、相当な衝撃を受けた愛之助は、期間中何度も、権四郎社長への接触を試みている。しかし、駒蔵とともに実際に言葉を交わすのは、もう少し先のことになる。その邂逅が、廣谷製鋼所のその後に、決して小さくはない影響をもたらすことも、その時は誰も知らない。(つづく・次回の掲載は6月15 日の予定です)

*参考資料:「第5回内国勧業博覧会」(国立国会図書館)(https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku5.htmlを元に作成)、「久保田鉄工八十年のあゆみ」(久保田鉄工株式会社発行)

* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。





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