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  <連載小説> 沈み橋、流れ橋

―明治・大正・昭和 一族三代のものがたり―


第1章(7)


物語を始める前に、新年のご挨拶を申し上げます。
駒蔵、今年も暴れ回ることと思います。
どうぞ温かい目で見守って下さいまし。
彼の人生になくてはならない「伴侶たち」も、いよいよ登場します。
駒蔵共々、ご愛顧願います。
読者のみなさまにとりましても、今年がいい一年となりますように。
ここは、大阪らしく二本締めで、
新年の言祝ぎと致しましょう。

打ーちまひょ  「パンパン」
もひとつせぇー 「パンパン」
いおうて三度さんど 「パパンのパン」

新年、明けましておめでとうございます。

 明治の世になってすでに十年が過ぎた。チョンマゲを結った最後の奉公人がついに断髪を決意した近江屋では、当主の廣谷駒蔵が、年少の丁稚らをこれからどう教育していくか、思いを巡らせていた。明治五(1872)年には「学制」が公布されていたが、子供がみな小学校に通える状況ではまだなく、月に五十銭の授業料は子を奉公に出している親にとって安い金額ではなかった。授業料は原則徴収しない、学齢児童を雇用する者は雇用によって就学を妨げることならぬ、という改定小学校令が出たのは、それからずっと先、明治三十三(1900)年のことである。

 駒蔵自身は船場にあった寺子屋に通わせてもらって、読み書きそろばん、習字といった実生活に必要な素養を身につけた。明治という新しい世で生きていく丁稚には全員、小さいうちにそれらを身につけさせたかった。明治七(1874)年八月、近江屋から通える距離に、西成郡第三区小学校として曽根崎小学校が開校していた。
 そのころ近江屋に学齢期の丁稚は八人いたが、彼らの授業料を全額持つことに、駒蔵は躊躇しなかった。丁稚は、ただ持ち前の“はしっこさ”だけでは駄目で、ある年齢に達すれば自分で考えることのできる頭を持つことが大事だと、自分もはしっこかった駒蔵は感覚で学んでいたのだ。なんのために学校という場所へ毎日行かねばならないのかわからない丁稚たち、さらに、わいらは行かせてもろてまへん、なんでこいつらだけやねん、と不満を漏らす年かさの者にも、若いおつむやさかい鍛え甲斐があんねん、と有無を言わせず納得させた。

 さて、近江屋という看板を新しいものに掛け替えようと奮闘していた頃、駒蔵は将来の伴侶の一人、美津とニアミスしている。もちろんそんな未来があることを、ともに知るよしもない。相手はまだ年端もいかぬ少女なのだから。奇しくも、駒蔵が生家の神崎屋から近江屋に養子に入った明治四(1871)年、その少女は曽根崎界隈に生を受けている。大店ではないが手堅い商売をしていた履き物屋の長女であった。
 駒蔵は、年明けから口の中にコロコロするできものがしょっちゅうできて閉口していたところ、番頭から「そら、だんさん、いっぺん天神さんにお参りしてきなはれ」と勧められた。天神さんといえば、近江屋からは目と鼻の先の「天満宮」だが、あまりに近過ぎてご利益がない気がしたのか、なぜか足が北を向いて、曽根崎の「露天神社つゆのてんじんしゃ」まで歩くことにしたのだった。
 露天神社の名は、菅原道真が太宰府に左遷される途中に立ち寄り、都を偲んで詠んだ「露とちる涙に袖は朽ちにけり都のことを思い出づれば」に因んだとされるが、その名よりも通称“お初天神”として知られている。時代は下って、江戸時代の浄瑠璃作者・近松門左衛門作「曽根崎心中」の恋人たち、お初・徳兵衛ゆかりの天神さんである。近松がこの物語を発想することになった実際の事件が、当時は樹木の生い茂っていた広い境内で起きた。この世で添うことのかなわなかった新地の遊女と醤油屋の手代が、あの世で一緒になろうと命を断った事件は、ひと月後には人形芝居となって、大好評を博した。心中が流行って、その何年かのち、幕府は「心中禁止令」を出すまでになった。
 
 時は流れて明治。同じその地で駒蔵と美津は、気付かないままに出会っていた。空気は冷えるが良く晴れた昼下がりだった。お初天神にたどり着いた駒蔵が、拝殿の石段を昇っていたとき、ちょうど左側を降りてきた少女がよそ見をしていて足を踏み外し、石段から転げ落ちそうになった。駒蔵は思わず手を差し伸べ、彼女の身体をなんとか支えた。ほんの一瞬の出来事だった。
 少女はそのときまだ数えで十歳。駒蔵は連れていた母親に礼を言われてから初めて、その子の顔に目を留めて、
「ほう、この子は大きなったらえらい別嬪にならはるわ」
 と心の底で思っていた。

 森井美津。のちに駒蔵の子を男の子ばかり七人産み、廣谷家の一方の山を築くことになる人物である。(つづく・次回の掲載は1月15日の予定です)

* 参考資料 「学制百年史」(文部省)        
* 実在の資料、証言をもとにしたフィクションです。




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