孫子と日本史:教え⑰「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」と砥石城の戦い (孫子と真田氏/武田氏の関連)
こちらの投稿は、「大人散策辞典 ”wiki stroll” ~tomoaki blog~」の "Original の記事" を基本同じ内容で、記載している記事になります。Original の記事では、より多くの写真も含め記載しておりますので、併せてご参照頂けますと幸いです。
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【はじめに:「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」のメッセージは?】
今回は、孫子の中に出てくる言葉で、「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」を、考えてみたいと思います。
「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」は、孫子の中の「用間篇」の初めに出てくる言葉です。用間、つまりスパイですね。もっと言ってしまえば、スパイの重要性やその種類、接し方、方策等が書かれているパートと言う事です。その初めに出てくる言葉が、「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」であり、スパイ、すなわち「情報」の重要性を、いの一番に名言していると言う事です。
”孫子”に関しては、Wikipedia の力を借りますと以下の様にあります。
2500年も前の兵法書で、古典の中の古典と言う事でしょうか? 勿論、現代版のものしか、私には読む事は出来ませんが、「端的でシンプルな文章は、読む側の状況に応じて、理解し、考えを巡らせる為のベースとなる、原理原則が書かれた書物」、言った認識を個人的に持っております。
この意味そのものは、さほど難しくないと思いますが、私なりの理解を、直訳的に記載させて頂くと、「戦と言うと、とかく戦闘その物のイメージが付きまとい、兵力数や武器、戦術に目が行ってしまいがちだが、情報取集も非常に重要なポイント。戦その物には、そもそも戦闘に突入する前から、莫大な費用が掛かっているのだから、それを成功に導くための情報を、多少のお金を惜しんで、ないがしろにして、情報収集をを怠る事は、あってはならな事」といった所でしょか?
確かにその通りだと思いますし、情報収集を怠ると、目的を達成できなかったり、達成してもかえって高くついたりする事も考えられますので・・・。(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)
Wikipediaより:『尾州桶狭間合戦』(歌川豊宣画)、織田信長:
桶狭間の戦いで、信長は義元の首を上げた者よりも、居場所を特定(=情報)した家臣の方により多くの褒美を与えたと言われているらしい…
【「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」から連想する日本史の実例は?】
皆様は、この言葉から、何か日本史上の出来事を思い浮かべる事は、出来ますでしょうか? よく、「情報の価値を理解する」と言うポイントで、織田信長の桶狭間の戦いが取り上げられると思います。「信長は、今川義元をこの戦いで討ち取っていますが、討ち取っとった者に与えた褒美よりも、多い褒美を、義元の居場所を特定した者に与えた」と言う話ですね(桶狭間の戦いは、別記事で紹介させて頂きました)。
なので、ここでは、また違った事例を考えてみたいと思います。それは、武田信玄と村上義清の間で戦われた「砥石城の戦い」です。「ん?」と思った方も多いと思いますが、切り口は、「武力でなく、情報戦で戦うと、こんな違った結果になる」と言った切り口の実例と言う事です。
武田信玄居城・躑躅ヶ崎館跡(現武田神社)と村上義清の居城・葛尾城祉への登山口にある石碑のMap
簡単に、砥石城の戦いを、Wikipedia の力を借り整理してみますと、以下の様にあります。
Wikipedia より:真田幸隆・昌幸・信之・信繁(⁼幸村)の真田3代
つまり、「武力で力攻めをした信玄は、大敗を喫し、敵内部に入り込み、寝返りそうな敵方の武将を見つけ(=成功のポイントとなる情報収集)、それを調略した真田幸隆(昌行の父、真之・信繁(=幸村)の祖父)は、城を奪った」と言う事です。言い換えれば、「敵の情報収集が十分でなかった、この時信玄は、正に『敵の情を知らざる者は不仁の至りなり』の状態だった」と言うのが、私の勝手な考察と言う訳です。(砥石城の近くには、別記事で紹介しました真田の本拠地上田城があります、また別記事で武田の三堅城の一つと言われた真田氏のお城の一つ岩櫃城も紹介しております)
後の真田氏の居城:上田城、江戸時代の真田氏の拠点:松代の様子
(それぞれ別記事で記載中)
【最後に:「爵禄百金を愛んで敵の情を知らざる者は不仁の至りなり」から何を思う?】
上記の様な、勝手な考察をさせて頂きましたが、皆さまはどう思われましたでしょうか? 信玄は、この「砥石崩れ」の前の戦「上田原の戦い」でも板垣信方・甘利虎泰を失い、自身も手傷を追う敗北をしています(勝敗については、各種見解の違いもある様ですが…)。戦の勝敗は、見解の違いもあり、一概には言えないと思いますが、勝率95%を超えると言われ、戦国最強とも言われる信玄が、本当の意味で大敗を喫した戦が、この「砥石崩れ」だと思っています。
戦があったのは、1551年なので、恐らく信玄は30歳位。しかし、この年以降の戦では、「負け」と言われる戦は、私の知識の中では無いという認識をしています(川中島合戦の4回目をどうとらえるかにもよりますが…)。恐らく信玄の中でも、「戦に対する姿勢が変わった敗北だったのかもしれない」と勝手に思ってしまった次第です。だからこそ、最晩年に北条氏と戦った三増峠の戦いや、家康と戦った三方ヶ原で、相手を圧倒出来たんだろうと思った次第です。
以下、甲府駅前の武田信玄公の像、山縣館(山縣昌景公のご子孫が運営する温泉宿)で撮影した武田24将図、風林火山の旗印(Wikipedia より)
負け戦から学んだ武将として、徳川家康(上記三方ヶ原の戦いの敗戦の後、しかみ像を描かせ生涯戒めとして、傍らに置いたとも言われる)が有名ですが、風林火山の旗印を使った信玄ですから、信玄もこの敗戦の後、反省しつつ、孫子を読み(読みなおし?)、本当の意味で孫子を理解し、失敗から学んでいったと思ったのは、私だけでしょうか?
(本ブログの別記事で、個人的に選んだ、「孫子の教え一覧」も記載していますので、併せてご参照ください)
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