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霧の宴  ミラノ Ⅱ          アンドレア

 「今月いっぱいは山で過ごしなさい」
山を発つ前に、アンドレアは大層真面目な顔つきで云った。
「それから、時々自己催眠を試してごらん。コントロールしながら神経をポジティーヴな状態に導いて行くように」
 短い山の滞在中、アンドレアはマリアムに自己催眠の方法を長い時間をかけ説明し実験したのだった。
 暫く忘れかけていた都会へのノスタルジアが湧き上がり、アンドレアと一緒にミラノに帰りたいとマリアムは思ったが、それは冷淡なほど厳しいアンドレアの医者としての命令で思い止まらなければならなかった。
「君のお陰で、と言ったらおかしいが、思いがけずまた山に来ることができた。久しぶりに古い悪友達にも会えたし、君が僕と同じにこの家を気に入ってくれたのも良かった、僕にとっては音楽の仕事をするのに、以前は最適な場所だったのだよ。もっとも、時々ジョルジョのお節介で中断せざるを得ななかったけど、、、、」と、ジョルジョを前にして、意味ありげに片目を瞑って見せた。
 辛うじてバランスを保っているマリアムの神経を気遣って、滞在中アンドレアはサロンの古いセミグランドの蓋を開けようとしなかったが、日曜日の夜になってから、マリアムが何か弾いて欲しいと懇願した。
彼は少し当惑したようにはにかんで、少年じみた薄笑いを片頬に浮かべたが、「もうかなり長い間鍵盤に触れていないのだよ、指が動いてくれるといいのだけれど、、、」と云いながら、椅子の高さを調整してピアノに向かった。「他ならぬ君のためだから、、、」
 音楽を心から愛する人の演奏する姿に、マリアムは惹きつけられるのが常であった。それは彼のような魂を持った人が、彼だけの世界から期せずして語りかけてくる無限にあふれる感性の美しさを反映している。
 アンドレアの横顔は少し厳しすぎるくらいに引き締まり、視線は何かを追って”空”をさ迷っているかのようであった。
大きな身体に不釣り合いに思えるほど繊細なタッチから生み出される音の起伏が、暗いダイナミズムを盛り上げるフラーゼに差し掛かると、ずっしりと苦悩に満ちて重ねられてゆく。少し前かがみの姿勢から、最初のテーマに戻ってゆくところで、背筋を起こし柔らかく息を抜きながら目を閉じ、そのまま弾き続ける。
 小さなミスタッチにも乱されることなく、J.ブラームスの間奏曲は悩ましく、静かなサロンに優しく広がっていった。

 六月が僅かな日々を残したある日、珍しくアンドレアから電話があった。
「ESに関するちょっとしたコンフェレンスをするのだけれど、来てくれる?
メムバーは、ジャーナリスト、画家、音楽家、心理学者などで、どんな展開になるかは分からないが、まあ、ハプニングというとこかな、アクターとして君が来てくれると、僕は大変うれしいのだが、、、、」
ESとは一体何か?マリアムには見当がつかなかったが、アンドレアがコンフェレンスの後で夕食に招待するというので、コルソ デッラ ポルタ ヴィットリアの会場に出かけることにした。
生憎その日は次のシーズンの出し物の一つ、J.アヌイの<アンティゴーヌ>にキャステイングされていて、その打ち合わせに時間が長引き、辛うじてコンフェレンスの始まる寸前に会場に入ったので、それほど広くないサロンはほぼ満席で、仕方なく最後列の唯一の空席にマリアムは腰を下ろした。
アンドレアは、何時もの様に華やかな彼のファンの群れに取り囲まれていたが、時々入り口のドアの方を見やり何かを探しているいるようであった。
やがて、コンフェレンスの始まる間際になってマリアムを見つけ出したが、その時は既に近づくことが出来ず、優しく視線で頷いて見せた。
 タイアーナという精神科医がESについての専門的な見解を述べたが、マリアムには理解できない部分が多かった。
そうしているうちに、以前G.W.グロデックのESに関する論文を読んだのを思い出した。確か、あの時は興味があったのにも拘らず、内容を完全に把握できないまま、途中で投げ出してしまったのであった。その後、C.G.ユング、J.ヒルマン、G.コッリ、G.カラッソなどを読み漁り傾倒し、G.W.グロデックのESは、すっかり忘れていたのである。
 精神科医の後で、一人の画家が色のごたごた並べたてられた自分の絵を示しながら、それによく似たもう一つのカンヴァスを隣に並べ、この二つの絵は一面識もない二人の画家が、一キロメートル離れた場所で、同時に催眠状態で描いた絵であるといった。次にジャーナリストがA.トスカニーニの死の報道に纏わる不思議な体験を語り、詩人がインスピレイションについて語っている間に、マリアムはいささか退屈してしまった。
 二十世紀に入ってから目覚ましい発展を遂げた心理学の分野は、哲学と縦糸横糸の密接な関係にあり、特に芸術においてはそれぞれを切り離して論じるのは不可能であると、マリアムは考える。
 其々の分野の専門家たちのスピーチが終り、最後にアンドレアが医者の立場から体験を語りながら、ごく自然にテーマは音楽に移ってゆき、やがて芸術一般における表現に広がっていった。
個人的な知り合いであることはさて置き、彼の話術は聴く人を否応なく引き込む力があり、それまで退屈気味であったマリアムが、聞き耳を立てていると、「私は今ここで、一番大切な友人の一人を皆様にご紹介いたします」と云って、突然マリアムの名を呼んだ。
虚を突かれたマリアムは、思いがけない出来事に席を立って挨拶をすべきか戸惑っていると、
「マリアムは、新進の舞台俳優としてご存知の方もいらっしゃると思いますが、私にとりましては、もう一人の私自身ではないかと思われる節があるのです。御覧の様に表面的には全く共通点はないのですが、屡々偶発的に、私自身としか思えない現象があるのです」
それから、マリアムが演奏した彼の作品が、彼の創造した意図と寸分違わなかったこと、何気なく語りだす事柄が、その時点で彼が話そうとしていることであったとか、ふと頭に浮かんだメロディーをマリアムが歌い出す、などを語った。
 前半部はアンドレアで終わったが、休憩時間になると、彼の話に興味を持った人々が、矢継ぎ早にマリアムを質問攻めにした。当然、それらはアンドレアの女性ファン達であったが、何やら二人の関係性に或る種の疑いを持ってのことであった。
マリアムは当惑して、思いもよらない見当外れの質問に答える術もなく戸惑っていると、アンドレアが近づいてきて、彼女の肘に手を添え会場の一角にあるカッフェバールに連れて行った。そして楽しそうに云った。
「僕の双子の妹にカッフェを」とギャルソンに云ってから悪戯っぽく
「君を驚かすのは大成功だったね、でも、何時か僕が言ったことを憶えているかい?僕たちは、同じ魂を生きているのだよ」

 ある日ふとした気まぐれで、マリアムは書棚からL.van ベートーヴェンのピアノ曲集を引っ張り出して久しぶりに弾いてみる気になった。
十代の頃、何故か異様な恐れを感じ、できるだけ避けるようにしてきたL.van ベートーヴェンである。マリアムの恐れとは、彼女の深層意識に潜む、認めたくない未知の彼女自身の内面の表出であった。ということが解り始めたのはしかし、ごく最近になってからなのだが、アンタゴニスティックな偏屈さも手伝って、少女の頃はグイグイと惹き付けられ、それに抵抗し、果てはそれ程まで自分を引きずり回す力を忌まわしいとさえ感じていたのであった。
 W.A.モツアルトをこよなく愛したJ.W.V.ギェーテがL.van ベートーヴェンに異様な抵抗を感じて、徹底的にその音楽に沈黙を固守したという逸話は余りにも有名であるが、自然主義者のJ.W.V.ギェーテにとってL.van ベートーヴェンの技(ARTE)は、彼の<美の調和>を破壊してしまうほど私的で、余りにも人工的であったのではないか?
 ともあれ、音楽における技(ARTE)が、展開と発展を繰り返して行き、人間の複雑な感情の内面の表出を可能にしたR.ワグナーのロマンティシズムを頂点として分解と崩壊の一途を辿り続けてゆくのを見ると、F.ニーチェの懼れは、ある意味において正論であったと言えるのではないか?
F.ニーチェの自虐的と言われるR.ワグナーの作品に対する苦々しく「微小なるものの巨匠」と言わしめた反論の対象はしかし、既にL.van ベートーヴェンの内に微かな芽生えの兆しを見ることができるのではないか?
もしW.A.モツアルトが生と死を超越した時空から人間を翻弄しているとしたら、L.van ベートーヴェンは喘ぎ苦しみながら、地上を彷徨い続ける煩悩に満ちた人間そのものの姿に見えてくる。
          つづく


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