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霧の宴  ミラノ Ⅱー8          アンドレア

*マリアム、スカラ座で<ペッレアスとメリザンド>を見る。
サムボリズムの<美>の神髄をアンドレアと語り合う。
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 <ペッレアス と メリザンド>がスカラ座の公演目録に載っていた。
メリザンドを演ずるのはF.von シュターデであることが、マリアムの興味を大いにそそった。美しい姿や涼やかな声の彼女ならば、マリアムの望むメリザンドを演じてくれるに違いない、と期待が膨らんだ。
 常日頃からこの美しい<詩劇>の上演が至極稀であることに、マリアムはたいそう不満であった。オパールのような不思議な煌めきを放つサムボリズムのポエムの美しさに、現代人たちは鈍感になってしまったのだろうか?
 アンドレアから電話があり「<ペッレアス と メリザンド>を観にゆくけれど、一緒に来ない?」と云った。マリアムは既にパルコを予約してあったのだが、考えてみれば、それまでアンドレア同席で観劇したことはなかったし、八月のコンサートを考えれば、マリアムにとって共通の時間を過ごす機会がより多い方が好ましいのではないかと思われたので、素直に彼の申し出を受け入れた。
 M.メーテルリンクの台詞に目を通しながら、改めてその選ばれたシムプルな美しいフランス語に陶酔する。性格を持たないペルソナ―ジュによって紡がれる会話はたいそう洗練されていて簡素なのだが、その流れに感性を委ねていると、いつの間にかゴローが迷い込んだ不思議な森の中に迷い入っていることに気づかされる。
ゴローの手紙をジュヌヴィエーヴが読む下りをC.ドゥビュッシーは、グレゴリオ聖歌風にしたと言われているが、その効果は見事で、マリアムの微妙な感性にそっと触れてくる。C.モンテヴェルディの<愛の手紙>のような、バッソコンティ―ヌオを伴ったレチタティーヴォに限りなく魅せられるマリアムは、<ペッレアス と メリザンド>にもまた、静寂の中に幽かに煌めきを放つような<美>の虜となってしまうのである。
 F.von シュターデは以前、H.ベルリオーズの<La Dannation de Faust>をスカラ座で聴き、気に入っていた。大層美しい人で、爽やかな声と格調高いその表現は、口煩い天井桟敷の人々さえも魅了したのであった。
マリアムの想像するF.vonシュターデの<メリザンド>は、A.クラウスの
<ウェルテル>,A.S.V.オッタ―の<オクタヴィアン伯爵>、F.ロットの  <元帥夫人>の様にはまり役であろうことが窺えた。
その期待が大きすぎたのか、一幕に登場した彼女に少し違和感を感じてしまった。背が高すぎる。姿も声もたいそう洗練されて美しいのだが、少々現代的、都会的な雰囲気が漂い、視覚的には.M.メーテルリンク&C.ドゥビュッシーのポエムからはかけ離れている。マリアムの<メリザンド>は、深い森のうっそうと茂る樹木の中に見え隠れする、ほとんど重力を持たないようなサムボリックな存在であってほしかった。
 この公演がMo.C.アッバードの指揮ということで音楽的には、あまり期待はしていなかった。勿論Mo.C.アッバードが二十世紀を代表する優れた指揮者の一人であることに異論はないが、フランスのサムボリズムのC.ドゥビュッシーとなると、やはりMo.G.プレートルかMo.P.ブレーズをマリアムは望みたかった。だが、危惧したほどは悪くはなかったものの、C.アッバードの腕や手の動きの硬さは、C.ドゥビュッシーの静かな水面に鈍く反射するような音の繊細な彩りや煌めきを操りながら醸し出される異次元の世界への誘いを充分に伝達することはなかった。
と、マリアムの耳元にアンドレアが囁く「君は今、クライバーを聴いているの、、、?」
その時、マリアムの感性は、無意識にMo.C.クライバーの美しい動作が操るであろうC.モネの睡蓮が浮かぶ水の表皮に乱反射しているようなC.ドゥビュッシーの妖しい光の音の煌めきを虚ろに想像していたのであった。
 しかし、淡々と舞台上の詩劇が進行してゆくにつれ、F.vonシュターデの品格のある爽やかな声質と聴き取りやすいフランス語のおかげで、マリアムの心は次第にほどけてゆき、C.ドゥビュッシーのもの憂い世界に引き込まれていった。
そして、「こんなにも穏やかな、こんなにも秘めやかで物静かな、世の全てのように謎めいた憐れな、小さな命、、、、」と、たった今息絶えたメリザンドの、生まれたばかりの赤子を胸に抱き、静かに歩を運びながら立ち去る年老いた王アルケルのシルエットが暗転の中に消えた。
 フランスのサムボリズムの音楽は奇妙な魅力をもっている、とマリアムは思う。理論的にアナリーゼを試みたとしても、何も解明したわけではない。サムボリズムの詩人たちが好んだ古代ギリシャ神話のペルソナ―ジュ達にしても、表面的には本来の姿を失って、何やら輪郭の定かでないシルエットと化し、E.デゥラクの森にひっそりと息づいているかのようである。
そして、それらはたいそう美しいのだが、あまりにも繊細なバランスの上に成り立っているので、鋭く研ぎ澄まされた感性が演者と聴者の双方に求められる。もしその感性がどちらか一方にでも欠けていると、C.ドゥビュッシーXM.メーテルリンクのポエムの世界は跡形もなく消え失せてしまうのだ。
 もの憂いE.ガレのペイサージュのようなC.ドゥビュッシーXM.メーテルリンクのポエムの中に分け入って、地上の人間の感情の起伏を求めようとしても、そこには、たった今存在していたかに感じられるミラージュの残照さえ消え失せていることに気づくであろう。
サムボリズムの美は、一瞬表皮に現れ、それを美しいと感じる感性のみに素早く作用するので、そこには哀しみという生の感情に感動を呼び起こす作動はなく、哀しみから摘出されたく美>の煌めきが一瞬まき散らされ、素早く気配を消してしまうのである。
 スカラ座を出たアンドレアとマリアムは、暫らく無言のままゆっくりと歩いていた。脳裏に残るサムボリズムの詩劇に心地よく浸っていたかったマリアムには、劇場から吐き出される人々のざわめきが煩わしかった。どこか遠い所に行ってしまいたいとさえ思った。
「こんなにも僕を恍惚とさせる美がまだ在るということに、今更ながら戸惑っている、、、、」 少し乾いた声でアンドレアは呟いた。
「わたし達を夢中にさせる<美>に出会える機会が本当に少なくなっているので、それに出会えると狂おしいとさえ感じられるのね」
「現代人は日常、あまりにも原因だとか理由だとか必然性だとかに囚われすぎて、原始の感性を目覚めさす美に対して鈍く臆病になってしまったようだ。<息づている美>を化石化させてしまう人間の愚かな知性に気づかなければならないのではないか、、、」
「潜在意識の底に潜むエネルギーのシムボル、と貴方がおっしゃるニンフ達の誘惑は、一瞬にして消え失せてしまう。<踊るサティロス>の恍惚の美に絶句した人もニンフの罠に掛かってしまった。瞬間的にサティロスの動きが生々しく伝わって来るとしても、それを意識する前にニンフ達は素早く退散してしまう。あとは、肌に残された記憶が、<美の恍惚>を狂おしく愛撫し続けるだけ、、、」
「A.ウォーバーグの言う古代ギリシャの<Gesto vivo>は、至る所でたった今立ち去ったばかりのニンフ達の気配を残す。美術の場合、人はその気配を感じながら、ニンフ達の残感を生きた感触に呼び起こすことができる。
君は憶えているかな、ドメニコ ギルランダーイオが描いたサンタ マリア
 ノヴェッラの、あの不思議な美しい乙女に魂を奪われたアンドレ ジョレスは、乙女に息づいているニンフに魅せられてしまった。真にA.ウォーバーグの<La  brise imaginaire>であり、古代ギリシャの<gesto vivo>なのだね。それは何処からやって来るのか、不意に一陣の風のように現れ、こちらが意識する間もなく消え去ってゆく。
トマス マンの、G.V.アシェンバッハの前に忽然と現れたあの美しい少年に
象徴される<美>もまた、気まぐれなニンフの悪戯なのさ。ひと瞬きに妖しく輝き、次の瞬間には消え去ってしまう<美>の誘惑とでも言えようか。そこには時間さえもな存在しない。古代ローマのハドリアヌス帝もまた、ニンフ達の悪戯の罠にかかってしまった。彼はアンティノウスの<美>に至福を感じのめり込み、<美>の前に成す術を知らず、ニンフの操る糸に導かれて無防備な魂となり、恍惚として己を失っていった。
 僕達は今夜、<ペッレアス と メリザンド>という物語を楽しんだのではなく、M.メーテルリンクの戯曲にインスパイアされたC.ドゥビュシーの
<美>の世界に誘拐され<brise  imaginaire>を生きていたのだね」。

       クレリア夫人につづく





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