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霧の宴  ミラノⅢ                     クレリア夫人           (副題 ジョットの叫び)

  ファノの公爵家に別れを告げて、マリアムはアッシジに足を延ばした。
以前からジョットに魅かれ、ぜひ一度はアッシジの大聖堂に描かれている壁画を観たいと思っていたのである。
北に上がってパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂を観るべきかとも思ったが、先ずは初期の作品と言われるアッシジの大聖堂から観るのが妥当であろうし、地理的にも近い。更に時間が許せばフィレンッエに寄り、サンタ クローチェにあるバルディ家の礼拝堂のジョットを観ることができる。
 その日は残暑か厳しい八月の、最後の日曜日であった。
 大地に突き刺さるような陽射しの下に広がる、刈り入れを待つ黄金のウムブリア平原の遥か遠くに、小高い丘が見えていた。
それがアッシジであった。伝説となってしまった聖フランチェスコのその町は、世界中から訪れる巡礼者や文化人、そしてマリアムの様にジョットに魅せられて訪れる人々で賑わっていた。
 ダンテをして<ジョットの叫び>と言わしめたものは何か?それを肌で感じたい、とマリアムは思っていた。それまでのビザンティンの画法の壁を打ち砕いた彼独自の技法、それだけを指しているとは思えない。その技法を必要としたジョットの個性の特異さを、他ならぬダンテはそう表現したかったのではなかろうか?
何故なら、そこに描かれている人々の其々の人物の体内には、生々しい熱い血が流れ、個々の人物の異なった感情の起伏の、赤裸々な表出を目の当たりにすることが出来るからである。
 ジョット ディ ボンドーネという人に関して、マリアムはこれという知識を持ち合わせているわけではない。G.ヴァザーリを読んだくらいである。しかし、アッシジの大聖堂からパドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に至るまで一貫して感じられるのは、彼の感性が、何物にも囚われることなく全く自由であったということであろう。
 想像を絶するほど巨大な、たいそう明るいバジリカの壁画を見上げながら、聖フランチェスコの生涯のエピソードの下絵を描き上げ、後は工房の弟子たちに全てを任せ、自らは既に請け負っていた他の仕事にかかるべく、ローマへ発って行ったらしい、したたかなトスカーナ人らしくエネルギッシュなジョットという人に感服させられる。
 後世になって芸術家というと、何やら曖昧模糊とした崇高な美の理想を掲げる浮世離れした特殊な人間たちの様に思われるようになってゆくのだが、ジョットの時代には、自らも他者からも、絵描きは依頼主の注文のテーマを
壁や板に描く職人たちであった。その中でジョットは、仕事の請負からオルガニゼイションに至るまで、卓越した手腕を持っていたらしい。
 アッシジのフレスコ画には、師のチマブーエ(一説)の影響がかなり色濃く見受けられるが、ジョットが描かんとしたところは、もっと日常的な市井の人間たちの、偽りのないありのままの生きた感情表現ではなかったろうか?思索熟考の末、それまでのビザンチンの伝統を破るべく到達した域というより、ジョットが想う聖フランチェスコという型破りな聖人を取り巻いていた素朴な使徒たちの在りのままの姿を、活き活きと壁に構成した、それだけではなかろうか?
そうであったとしたら、そこに彼の限りなく自由な感性が息づいているのを感ずるのである。
 W.A.モツアルトの魂が、何事にも囚われることなく自由であったように、十三~十四世紀のジョットもまた、時空の襞から独立していたようである。
彼は、壁の表面に注文されたテーマの図柄を描く職人たちの親方であった。彼の個性と感性の自由さが、画面にそれまでにはなかった表現をもたらした。それはたいそう美しく、人々は感歎したが、彼はそれによって莫大な金を手に入れることが出来たのであろう。
  ジョット工房による大掛かりな壁画が、見上げる人々を圧倒する明るい地上階の大聖堂とは対照的に、暗い地下のクリプタでの十一時のミサを、マリアムは生涯忘れることはないであろう。
 予告の鐘が鳴ってミサの始まりを告げる。
マリアムは、クリプタに続く階段を急いで降りた。明るい地上階から階段を降りると、一瞬何も見えなくなるほどそこは暗かったが、少し目が慣れてくると、僅かなろうそくの炎に照らし出されて、天井から側面に至るまでびっしりと埋め尽くされている見事なフレスコ画が、神秘的に浮かび上がっていた。チマブーエが描く聖フランチェスコの立ち姿が、蝋燭の灯に揺らぎ、無防備な眼差しのその人は、限りなく愛に満ちて、見上げるマリアムの邪気の心を憐れんでいるかのようである。
通常の聖人のイメイジからは程遠い、この破格の聖者の本質的な姿がありのまま描かれているのではないか、とマリアムは思った。
 ジョットと同じく、チマブーエ工房出身の(一説による)シモーネ マルティーニの画風の美しさは、他のフレスコ画群とはかなり異質な印象を与える。繊細な線が優しく大層優雅である。それはしかし、絵画としての美しさには納得できるとしても、親方のチマブーエや兄弟弟子のジョットが美の中から、その振動を伝えてくる強烈な<何か>に欠けている。
ARTEの世界において<何か>を伝達しようと試みる時、表現者の意識の根底に生息する表現者自身でさえ意識できない、集合的無意識から発する魂(アニマ)による創造の表出となる。装った技法や表現に左右されることなく、そこに現れる世界は、装う創作者の意図とは裏腹に、作者の本質を残酷に呈しているのである。その<本質的な美>が、他者のの鋭敏なアンテナに作用し呼び起こされる感動を、Mo.F.フェッラーリはC.クライバー論の中でVIBRAZIONE(振動、波動)と表現している。
 たいそう美しいS.マルティーニのフレスコ画の繊細で優雅な画風は、マリアムを感嘆させるが、決して感動させることはない。
 サン カルロの聖歌隊が歌うミラノのドゥオーモの洗練されたアムブロシウス式聖歌とは異なり、アッシジの暗いクリプタのミサの導入部のキリエ エレイソンがバッソ プロフォンドの単声で聖具室から聞こえると、予期せぬ戦慄がマリアムの体の中を走った。
それは素朴な声であった。素朴で力強く謙虚で、地の底から湧きたってくるような声であった。
先唱者の節に応唱しながら、粗末なトナカを纏った僧侶たちがミサを挙げる暗い祭壇に入ってくると、マリアムの立っている最後列まで香の煙が漂ってきた。
 虚飾に身動きが取れなくなってしまったような昨今のカトリックのミサとは異なり、その日のアッシジのミサは、聖フランチェスコの精神が息づいている素朴で偽りのない、謙虚なミサであった。その前には、壮大なジョットもチマブーエの厳しさも、マルテイーニの優雅さも、聖フランチェスコの脈々と生きる、イエズスへの限りなく深い愛の精神とは程遠く、色あせて見えてくるのであった。
 十三世紀をイエズスの愛のみに生きた、この粗末な布を身に纏った聖フランチェスコの限りなく慈悲深い眼差しと共に、その精神を反映しているようなその日のミサの感動は、マリアムの心から生涯消え失せることはないであろう。
    
  マリアムの旅と云えば、常に正確なスケジュールというものがない。気に入れば何日も同じ場所に留まるが、気が変わればすぐにその場を後にする。
その時も、アッシジの後はトスカーナに入りシエナに何日か滞在するつもりであった。しかし、ドゥッチョをはじめ、シエナの工房で描かれた大量の聖母像のあまりの多さにすっかり辟易し、以前から興味を持っていたS.マルティーニ作と言われている<グイドリッチォ ダ フォリアーノ>のたいそう美しいフレスコ画や、アムブロージョ ロレンゼッティの<善政の効果>も堪能したし、R.ワグナーが<パルシファル>のインスピレイション受けたと言われるミスティックなドゥオ―モの雰囲気も肌に感じたので、シエナは一日だけにしてフィレンツェに向かった。
 悲しいほど傷んでいるサンタ クローチェにあるバルディ家の礼拝堂の壁画は、ジョットによる聖フランチェスコの生涯のエピソードが描かれているが、数あるジョットの聖フランチェスコをテーマにした作品の中でバルディ家の礼拝堂の絵に、マリアムは最も感動を覚える。聖者の死を悲しむ使徒たちの、それぞれの素朴で赤裸々な感情が生々しく伝わってくる表情が見事で、心を揺さぶれ、アッシジのあの日のミサを思いながら、マリアムはバルディ家のジョットの前に跪いた。
          つづく
 




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