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 霧の宴  ミラノ  Ⅰ

  開演まで三十分というサロンに人々は続々と集まり、恒例の賑わいとなっていた。その夕べでマリアムも出演者の一人として、親しくしている友人の詩の朗読をすることになっていた。
 音楽会といっても、アンドレアと彼の従兄弟が主催する気心の知れた友人達の集まるごく内輪な楽しい会である。数年前から続くその会は、多方面の芸術を愛する人々の集まりで、アンドレアと従兄弟エリアを取り巻く一種の社交の場となっていた。
 浅い春の頃で、街角の花売りのミモザの優しい黄色が、湿った荒々しい石畳と対照をなしていた。
 北イタリアのミラノ人達とって、ミモザは重苦しい霧に閉ざされた長い冬の終わりを告げる早春の使者である。陰鬱な鉛色の空を窓越しに見上げ、家に閉じこもっているのに飽き飽きし、重いコートを羽織り霧の晴れやらぬ灰色の町に出ると、小さな玉ころをいっぱいにつけたミモザの小枝に出会う。そこには微かな匂いが漂い、小さな春が懸命に息づいている。ああ、もう直ぐ春、と思わず微笑みがこぼれる。
 開演時間が迫っていた。だが、アンドレアとエリアの姿は見当たらなかった。いつもはその会を楽しみに集まってくる友人達を暖かく迎えるために、一時間ほど前から姿を見せているのが常であったのだが、、、、
 格調高くスタイリッシュな典型的なミラノ紳士のエリアとは正反対に、身じまいには全くと言っていいほど無頓着なアンドレアであったが、何時でも何処でも、例の柔らかなヴェルヴェットのバリトンが天性の話術の巧みさを際立たせ、取り囲む華やかな人々を魅了するのであった。
 友人の作曲家は、折に触れアンドレアがマリアムの近況を訊ねる、と云ったが、実際にはあの晩秋の午後以来、マリアムはアンドレアに会っていなかった。
 そんなある日、作曲家から電話があり、アンドレアが従兄弟と主宰する音楽会で、マリアムに詩の朗読を頼みたいと言ってきた、と伝えた。
彼女は、快くその申し出を受けた。ふとその時、単純に、あの魂にもう一度会ってみたいと思ったのである。
 依然として主催者である二人の姿は見当たらず、集まっている人々の間に不安な空気が漂い始めていた。
と、その時突然サロンに続く中央の扉が荒々しく開かれ、少し青ざめた面差しをした長身の紳士が現れた。エリアであった。足早に人々から少し離れた場所に立っている作曲家とマリアムに近づき、押し殺した低い声で口早に、作曲家の耳元にささやいた。
「アンドレアが、今朝倒れたんだ。入院させたけれどまだ意識が戻らない。
今夜は、皆には未だ伏せておきたい。急を要する用事で、今夜は突然来れなくなったことにしようと思う」
エリアはそそくさとその場を離れ、例の非の打ちどころのない身のこなしで注視する人々に近づき、いつもの様に洗練された社交的なあいさつを交わしながら、取り巻く人々の中を通り過ぎていった。
 マリアムの頭の中に突然嵐が巻き起こり、その中に小舟のような影がキリキリと吸い込まれてゆく幻影を見た。
 そのコンサートでいったいどのように、友人の詩を朗読したのであったか、マリアムには全く記憶がない。

  病の重さにしては、アンドレアの回復はたいそう早いように思われた。
しかし、それは彼の意志の力のなせる業であって、必ずしも体力そのものの復活ではなかったことを知ったのは、ずっと後になってからのことである。
親しい友人達は皆、常日頃自分のコンデイションを顧みない彼の、無理な仕事のスケジュールを危惧していた。医者とは一般的にそのような傾向があると言われるようだが、アンドレアのそれは、いささか軌道が外れていた。
 懐かしく彼を思い出すたびに 、人懐こい小さな顔には不釣り合いな、なぜか恐ろしい奈落の底をさ迷っているかのような空(くう)を凝視している眼差しを時折見かけたのを、マリアムは忘れることができない。
 アンドレアの予想外に早かった退院を、人々は無邪気に喜んだ。親しい友人達は、無意識に以前と少しも変わらない彼を見出すことを願っていた。
そして、彼自身も努めて そうあろうと装っているようであった。
依然として華やかに、おそらくより一層社交的に振舞おうとしていたが、その行為は、しばしば彼の意思に反して自身を苛立たせるようであった。
「アンドレアはもう以前の彼ではないねえ」
友人の作曲家は、激しく往来する車の流れを三階の窓越しに見下ろしながら云った。
 マリアムは、彼が親しい友を思いやりながらも、どうすることもできない自分の無力さに、いささか腹立たしさを感じているのを察していた。
彼女とて同じ思いである。
 確かに、病後のアンドレアは目に見えて疲れている様子で、少し痩せて青ざめて見えることがあった。
 あのコンサートの夜以来、マリアムはそれまで想像すらできなかった或る呪いに願をかけていた。それはある霊媒者から教わった儀式で、毎朝コップ一杯の水に彼の健康回復を祈祷するという、それまでの彼女ならば笑い飛ばしたであろうたわいもない呪いである。しかし、それはその時、マリアムが友人のためにできる唯一のことであった。願をかけたコップの水に気泡が立たなくなったら彼の健康は回復している、と霊媒者は言った。
その呪いは、半年以上も続いたであろうか、、、、ある日、マリアムは友人の作曲家にアンドレアの近況を訪ねた。
「このところ調子が良いらしいよ、めずらしくヴァカンスを取って、静養がてらエリアと一緒にイスキア島に行ったらしい」
 そういえば、その夏イスキア島から親しみを込めた楽し気な絵葉書が、マリアムのところにも届いていた。
マリアムは少し安堵し、息を深く吐いた。
ーあの魂の持ち主は、少なくとも身体の苦痛に苛まれることはあまりないであろうー
「ねぇ、そろそろ彼らの主催する今シーズンのコンサートのプログラムを組まなければならないのだけれど、アンドレアの病後のことだし、勇気づける意味で彼の作品を歌ってみない?」
「えッ、誰が?  わたし ?!」
不意を突かれてマリアムは絶句した。
舞台俳優の立場で時々友人の作曲家のレッスンを受けてはいたが、飽くまでも役者としてのことであって、人の前で披露するつもりはなかった。
ーそれに、アンドレアの作品はおそろしく複雑で、素人の自分が歌える筈もない、いや、歌ってはならないのだーとマリアムは思った。
「アンドレアの君への敬愛の念は相当なものだし、君が歌ってくれれば何より喜ぶと思うよ」
  あまりにも唐突であった。驚いたマリアムは、言葉もなく作曲家を凝視したまま、しばらく沈黙していた。
 ーたとえ親しい友人達の集まる内輪なコンサートとはいえ、毎年シーズンを持ち、その個性的な企画で、近年ある種の愛好家達から注目視され始めているというではないか?わたしのような素人が出る幕ではないー
黙り込んでいるマリアムにはかまわず
「僕が伴奏するからね、心配することはないさ」と、マリアムの胸の内を見透かしたかのように、作曲家は事も無げに云った。
ーあの魂が美の中に何を求めているのか、わたしには想像できる。それは、わたし自身が模索している世界とそうかけ離れているとは思えない。ならばその確信を得るために、勇気を奮って冒険してみるべきか、、、ー
心の底から得体の知れない不思議な感情が突き上げてくるのを、マリアムは感じた。
そして、彼女はようやく口を開いた。
「ドクトルが何とおっしゃるか、先ずあの方の意見をお聞きしなければ、、
貴方だけの意向では何とも、、、でも、もしドクトルが望まれるのでしたら、、、」
 無謀さは十二分に承知している。だが自らへの挑戦になるであろうことに、マリアムの心は躍った。
            つづく


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