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霧の宴   ミラノ Ⅴ                                             Al di Là (アル ディ ラ )      彼方に                             

 

霧の晴れやらぬ街並みの湿った粗い石畳を用心深く踏みしめながら、
マリアムは作曲家の友人の家に向かっていた。
 湿った重い空気の漂う中、突然ふわりと密やかに微かなミモザの匂いが鼻をくすぐって、マリアムは立ち止まり背筋を伸ばし辺りを見回した。が、それらしき樹木は見当たらず、ミモザを売る道端の花売りの姿もない。
ー確かにミモザの匂いがした筈なのにーと解せなかった。
 その日は、コンサートシーズンの最終日にセッテイングされているA.ヴィヴァルディの<Stabat  Mater  佇む悲しみの聖母>を共演する、クレリア夫人の従兄弟の弦楽器のアンサムブルと、マリアムの最初の打ち合わせを、
作曲家の家ですることになっていたのである。
 マリアムが作曲家の家の近くまで来ると、大通りを作曲家の家が面している路に曲がる角の向こう側に、見覚えのある紺色のローデンのコートを着た人影が立っているのが見えた。咄嗟に、それがアンドレアであることに気づき、マリアムは急いで近づこうと足を速めた。
人影は、薄い霧のためか鮮明ではなかったが、確かにアンドレアであった。  何時もの見慣れた優しい笑みを浮かべ、こちらに向かって親しみを込めて両腕を大きく広げている。
<スタバト マーテル>の最初の打ち合わせに立ち会うために来てくれたのだと思い、マリアムの胸は高鳴った。と、その時、、、
突然、一台の黒塗りの乗用車が何処からともなくフルスピードで現れ、マリアムの視界を遮り一陣の風のように走り去って行った。
そして、、、、紺色の人影は跡形もなく消え失せていた。
一瞬の出来事であった。
 マリアムには、何が起こったのか直には理解できず、虚ろな眼差しでぼんやり立ち竦んでいた。が、目の前の景色に何事もなく、何時もの見慣れた日常の風景であることに気づき、我に還った。
 そして、ーアンドレアは元気にしているだろうかーと思い、そうに違いないと自分を納得させ安堵し、ゆっくりと作曲家の家の表門に吸い込まれて行った。
 翌日の早朝、枕元の電話の時ならぬベルの音でマリアムは起こされた。
昨夜は、新しい芝居の台本に目を通さなければならなかったので、眠りについたのは夜明けの四時頃であった。突然に眠りを妨げられた不快感で、たいそう不機嫌な声で受話器を取ると、向こう側から友人の作曲家の声が聞こえてきた。何時になく沈んでしわがれたその声は
「、、、、、、、、è  morto  Andrea     アンドレアが死んだ」
と、のろのろと無表情に告げた。

 アンドレアの居なくなったコンサートシーズンの最終日を、【アンドレアがそう望んだであろう】、というエリアの強い要望で予定通り遂行されることになった。

  • 奇しくもその年の締めくくりは、A.ヴィヴァルディの<スタバト マーテル>であった。クレリア夫人のたっての要望に応えて、アンドレアが組んだプログラムであったが、ポルディ ペッツオーリ美術館で初めて公爵夫人と言葉を交わすことになった、あの見事なコンポディションのS.ボッティチェッリの<嘆き>の前での思いがけない出会いを思い出させる、マリアムにとってはたいそう意味深い曲なのである。

  •  死せるクリストを膝にして、気を失っているかのような聖母マリア、それを 取り囲む悲嘆にくれる身近な人々。

  •  今、それがアンドレアを失った友人達の、彼に捧げる追悼演奏会になるとは、何か不思議な運命に操られているとしか思えなかった。

  •  エリアはその夜、客席の最前列の中央の席に真っ白な大輪のバラを一輪置いた。それは、あたかも何時もそうであったように、親しい友人達とその夕べを共に楽しむアンドレアの姿であった。

  • 友人達もまたアンドレアがそこにいるかのように振舞っていたが、誰も彼の名を口にすることはなかった。其々の胸の中には、アンドレアへの様々な思いが溢れていたであろうに、、、、、、。

 やがて時が怠惰に過ぎてゆき、人々はゆっくりと日常生活に戻っていった。
スカラ座や他の催し物などで、他の劇場で友人達は顔を合わせる機会はあったが、何故か以前のように華やいだ心が浮き立つような雰囲気はなく、
「やあ、どうしてる?元気かい?」「まあね」などと、荒唐無稽なあいさつに終わるのであった。
 あの日から、マリアムは友人の作曲家の家に足を運んでいなかった。
アンドレアの葬儀にも葬列にも姿を見せなかった彼女を、彼は強く非難している、と風の便りにマリアムの耳に届いていた。
ーそうであろう、貴方にはとても理解出来はしないのだから、、、ー

 あまり気乗りしなかったので、返事が延び延びになっていた戯曲化されたL.アリオストの叙事詩<Olrando furioso    怒り狂うオルランド>のレプリカ公演のイベリア半島、フランス、ネーデルランドへの巡業を、マリアムは意を決して受けることにしたのだが、、、、
 心が揺らいでいた。この作品自体にあまり魅かれるところを見出せなかった。そのせいで、満足のいく演技ができないことも重々分かっていたし、そのような状態では、自分が納得できる人物像に舞台の上で命を吹き込むことは、とうてい出来ない。自分の無力さと虚しさに、マリアムは腹を立てた。
 それまでの自負の念、、、、、それは単なる未熟さゆえの過信なのではないか? その壁を打ち砕く勇気はあるのか?
 迷いを振り払うように、勇気のある無しを無視して、自分とその壁に挑戦し、裸で挑んでみようと決心して、マリアムはミラノを後にした。
 半年以上ミラノから遠ざかっていられる、という事も彼女を決心させる要因の一つであったが、何よりも独りになりたい、独りになって自分に何ができるのか確かめてみたいという心の底から湧き上がる欲望が、彼女を駆り立てた。未知の環境で、未知の世界が生まれ、未知の自分に出会うことが出来るかも知れない、という期待があった。
 マリアムは、孤児になったのだと確信しなければならなかった。
かつて、お互いに共有したある特別な<美>の感動を響き合える双子の兄は、もはやこの世にはいないのだ、という現実が彼女を孤絶の世界に追い込んでいた。しかしそれは、苦痛ではなく、むしろこれから未知の領域に足を踏み入れるための、必要不可欠な絶対的条件なのだ、と得心するに至った。

            つづく


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