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霧の宴   ミラノ Ⅲ         クレリア夫人     

  七月に入ってミラノ人達が例年どおりヴァカンスに出かけ始め、町が次第に落ち着いた雰囲気を取り戻し始めたころ、約束通り、アンドレアの研究所にマリアムは足を運んだ。
 その夏は、五月半ばからかなり気温が高くなり、粗い石畳の照り返しに、日中の外出は余程勇気がいった。しかし、古い石造りの建物に入ると、アンドレアの研究室は乾いた空気がひんやりとしていて、外の暑さは嘘のようで心地よかった。
 アンドレアは催眠術の実験を試みながら、C.G ユングのシンクロニシティをマリアムに説明した。人類が、現実を超越した世界の領域を、共通した
<集合的無意識>を持っていることに留意する重要性を強調し、人間は<集合的無意識>という最も深い部分で繋がっている。それが創造的な発想の源になっている、ということであった。故にシンクロニシティ(同時性、瞬時性)は、人類の<集合的無意識>による影響のもとに生じる現象なのであろう、とマリアムは解釈した。
 ディ カンディドの詩集から<虚無の休息>と始まる長い詩をマリアムに示しながら
「これは君と僕が共息する絶対地に最も適していると思う。君はなにもしないでいい。無私の沈黙の中で偶発的に脳裏に浮かび上がってくる旋律を歌う、ただそれだけだ。頭も心も完全に空っぽの状態を保つことが大切。君の感性が僕の感性に無理なく一致していることに、僕は絶大な確信がある」
 一歩外に踏み出すと眩暈がするほどの暑さに驚いたが、思い直して夏の午後の熱気の中に踏み出しながら、マリアムはあれこれ思案し続けた。
果たしてアンドレアの言う”頭の中を空にする”ことなど出来るだろうか?
様々な考えが、浮かび上がりそして消え去り、を繰り返していたが、益々混乱状態に陥りそうなので面倒になり、結局アンドレアの意思に盲目的に従うことが最良であろうという結論に達した。

 コンサートは八月三日に予定されていたが、その日が近づくにつれて、次第にマリアムの心には不安の黒雲が広がっていった。それに追い打ちをかけるように友人の作曲家から電話があり、アンドレアの試みに彼は大変懐疑的である、と云った。
ーアンドレアは今、何を感じているだろうか?ー
あまり気乗りしないまま、上の空でF.メンデルスゾーンを弾いていると、不意にアンドレアの影が脳裏を横切った、と、同時に電話のベルが鳴る。
「丘の上に今、羊のような雲が浮かんでいるけれど、君の所からも見えるかな?」柔らかなバリトンが、受話器の向こう側から聞こえてきた。
「メンデルスゾーンの<浮雲>を弾いていたのよ」
「あゝ、それで分かった、君が僕と同じ雲を眺めているのを感じたものだから、、、」
「浮雲の様に平和な気分ではないのよ、今は、、、」とマリアムは珍しく情けない声で云った。
「さあ、目を閉じてごらん、ゆっくりと深く息を吸って、それから少しずつゆっくりと吐いて、もう一度繰り返す、、、ジヴェルニーの睡蓮が浮かぶ池の水面の上を君は歩いている。そうすると足の裏に水の表皮が薄い絹の布のようにぴたりと吸い付いて、その冷たい心地よさが足の裏からだんだん体中に伝わってゆき、頭の中にゆったりとした平穏な気分が広がって、泳いだ後の気怠さが体の隅々まで伝わってゆく。君は今、満たされた気分でゆっくりと流れてゆく山の上に浮かぶ雲を眺めている。何も考えていない。ただ雲の動きを無心に追っている」
 アンドレアの暗示にかかって、マリアムは少し心の落ち着きを取り戻した。そして開き直り、ー卵でもトマトでも飛んで来るがいい、後は、湖に飛び込んでしまうだけであるー。
 異常な暑さ続きにミラノは乾き切っていた。そのためにスケジュールを繰り上げてヴァカンスに出発する人々が続出し、市内はゴーストタウンのような不気味さに静まり返り、夜になると闇の中にポツリポツリと見える家々の疎らな明かりに心細い思いをし、大通りの石畳を歩く自分の足音が響き返ってくるのにギョッとして立ち止まる。
 週間天気予報では、八月の二日の夜半から気象状況が急変して大雨が降る可能性があるので要注意、と出ている。
 そして八月三日になった。朝から低く雨雲が町を覆い、稀に見る豪雨となっていた。気温は極端に下がり肌寒さすら感じられた。
ーミラノがこうならば、マッジョーレ湖は如何に?ー
コンサート会場がマッジョーレ湖に浮かぶ島のパラッツォ ボッロメーオであることから、こんな豪雨の下では島に船で渡れる筈もなく、コンサートは取り消しになる可能性が大である。
果たして、電話口のアンドレアの声は沈んでいて、コンサートの取りやめを伝えた。
残念そうな彼の口調とは裏腹に、マリアムは重い不安から解放されてほっとし「雨よ降れ!もっと降れ!!」とうきうきして、雨の滝を頼もしく何時までも眺めていた。
        つづく

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