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  霧の宴   ミラノ

  長い旅から帰ると、友人の作曲家から電話があった。
アンドレアとエリアが主催する例のコンサートシーズンの締めくくりとして、そのシーズンの総出演者のガラコンサートで、それぞれ一曲づつ演奏することになっているから、君はカルメンのハバネラでも歌ったら、と作曲家は事も無げに言った。
マリアムの留守中に、彼は独断でそう決めたらしく、既にプログラムは印刷されているということである。
してやられた、と憤慨したが時すでに遅し、であった。
 マリアムには作曲家の魂胆が見え透いている。常日頃の彼女の傲慢さに絶対的な復讐を、彼は企んでいるのだ。
 「カルメンか、、、」とマリアムは呟いた。
プロスペル・メリメxジョルジュ・ビゼ―のカルメンは、マリアムの好きな歌劇の一つである。P.メリメの原作を踏まえてG.ビゼーはその総譜の中に、野生の生き物のような若いジプシー女と、彼女の生き様に翻弄される純朴な田舎出の兵士の悲劇を見事に描いている。G.ビゼーのどこか本能的などす黒さを感じさせる音楽が、たまらなくマリアムの感性をくすぐる。
 しかし、G.ビゼーが鮮やかに描く世界は、歌劇としての舞台芸術の実現が不可能に近いのではないか、とマリアムは思う。
それは、おそらく百公演以上は観た舞台の、どれ一つとっても演劇人としての彼女を納得させる出し物はなかったからで、役作りが固定化されていて、男をいたずらに手玉に取る手練手管の女というのが定番であった。或いはベルカントで朗々と歌われたりするので、マリアムの想い描くカルメンとは全く異なる人物像なのである。
<カルメン>に求められる特質は,O.ワイルドxR.シュトラウスの
<サロメ>同様、役柄の個性を表現できる声の質、容姿、役者としての演技力の何れも欠けてはならない。
 大変興味深いエピソードがある。O.ワイルドxR.シュトラウスの<サロメ>をマエストロ カルロス・クライバーに提案したある劇場支配人は、「私のサロメを見つけて下さったら、喜んで、、」というマエストロの返事に、不可能という答えを読み取ったと語っている。
 確かに、あの完璧主義でマニアックな美の探究者には、彼の美意識を満足させる特別な人材が居ない限り、<サロメ>は上演不可のなのだ。
 ヘロデ王がいかにサロメに魅せられていったかを聴衆に納得させる強烈な何かを、この小娘は持っていなければならないと、マリアムは考える。
ヘロディアの熟れきった豊満な女体とは対照的な、青い果実のような乳房を持った、冷たい大理石の感触の美少年かと見紛うほどの肢体をサロメは持っていなければならない。それは多分、グスタヴ・モローの<出現>に描かれるサロメに近いのでは、、、。
 マリアムは、これぞカルメンと思わせる若いジプシー女にローマの街角で出くわしたことを思い出した。小柄で細い身体を黒い衣装でキリリと締め付け、無造作に束ねた艶のない黒い髪の毛がほつれかかる小さな浅黒い顔には、野生動物のような眼が異様に鋭い光を放っていた。どこかB.ビュフェの絵に似ている。そのジプシーは、通りすがりのマリアムの腕をグイと掴み「手相を見てやる」と云った。
 三分とかからないハバネラに、マリアムは様々な表現を試みる。
先ず、コントラルトの暗い声色が、カルメンに適しているとは到底思えない。だとしたら、自分の感情に忠実な生き方しか出来ない若いジプシー女をどのように表現すべきか、しかも魅力的な、、、、。
 その度ごとに異なった歌い方をするマリアムに、作曲家の友人は呆れ、辟易していたが、
「これはオペラリリカの中のアリアではない。あの時代のはやり歌の一つという設定になっている。だからカルメンという人物の感情とか心情を表現しているわけではない。勿論、ドン・ホセの無関心ぶりを見て、ちょっとからかってやろうという軽い悪戯心はあるがね」と云った。
 スペインを旅した時に見つけたジプシー風の黒いローブを、マリアムはその夜着ることに決めていた。ローマの街角で出くわした、あの時の若いジプシーの印象が脳裏に焼き付いていたこともあったが、本心は自信のないカルメンを、せめてコステゥームだけでも其れらしく装ってごまかそうという魂胆である。
 それを知って、巡業を共にした俳優仲間の悪童たちは、彼女を笑い者にする機会が来たとばかり喜び、真っ赤なバラを髪に挿せば完璧になるぞ、などとからかった。
もとより、悪童たちの悪ふざけを満足させるつもりはマリアムにはない。だが、P.メリメの原作にもH.メイヤック&L.アレヴィの台本にも、一幕でカルメンがドン・ホセに投げつける花は、確かアカシアではなかったか?
それに何よりも、ジプシーにバラの花は不釣り合いである。
 あいにく、マリアムは風邪をひいてしまった。尤もらしい口実が出来たので出演を断ろうかと思ったのだが、それでは友人の作曲家の挑戦に戦わずして敗れることになってしまう。彼だけには弱みを見せたくない。
幸いに風邪は軽症で、ハバネラの音域なら何とかなりそうな気がしてきた。
で、その夜はひどく鼻にかかった声で歌う羽目になった。
 例のローブを試着する。鏡の中にジプシーの女が映し出されていた。
しかし何かが欠けている。全身黒一色で固められているのは好しとして、その効果を引き立てるアクセントがない。あれこれ考えた末、不本意ではあったが、小さな深紅のバラを左手首に巻いた黒いヴェルヴェットのリボンの結び目に差し込んだ。悪童たちの彼女への揶揄は、覚悟しなければならない。
 その夜、とても素面で歌う勇気がなかったので、マリアムは歌う前にこっそりシャンパンを一杯煽った。
そのおかげで少し緊張がほどけたのかピアノの傍らに歩きながら、咄嗟に即興の、芝居のようなセリフが口をついて出た。
そしてハバネラの冒頭<L'amour  est un oiseau  rebelle  peut  apprivoiser>をセリフの続きの語り口で、その後を歌につなげていった。実に大胆な咄嗟の演出である。伴奏をする友人は、ハプニングに呆気に取られて慌ててマリアムのハバネラに従った。

 コンサートシーズンの締めくくりのガラということで、いつもの華やかなレセプションが開かれた。
 マリアムは、作曲家にハプニングで復讐できたことに満足し、珍しく陽気で、ごった返す人々の中で雰囲気を楽しんでいると、人々の間を縫うようにして、グラスを片手に友人の作曲家が、見知らぬ紳士と共にマリアムの前に現れた。そして、いつもの皮肉な薄笑いを浮かべ
「人を驚かせるのにも程度があるよ、ひどいね。まあ、僕の方にも君が芝居やだということを忘れていた油断があったがね。 ともかく、決して悪くはなかった。いや、むしろ君の偶発的で少し投げやりな表現を評価するよ」と云ってから「こちらは、、、」と傍らの紳士を紹介した。
 その紳士は高名な音楽評論家であった。
「マエストロから伺いましたが、歌は趣味ということですが、最近は貴女のような声色のコントラルトは稀になってしまいました。本気で声楽をなさったら如何?私は、人間の声の中で特別コントラルトに魅せられるのです。
私の青年時代にキャスリーン・フェリアという素晴らしいイギリスのコントラルト歌手が居りまして、、、、」
 マリアムは、ふと、アカデミア時代に、発声のコーチに来ていたローマ歌劇場のヴォイストレイナーにも同じようなことを言われたのを思い出した。
しかし、イレーネ・パパス演ずる<メデア>に深く感動し、ギリシャの古代劇場でギリシャ古典劇に魂を奪われた後では、マリアムの心は演劇以外の誘惑に揺らぐことはなかった。
 今夜は全てから解放されて、ただ単純にホールに繰り広げられているバカ騒ぎを楽しみたい、それだけをマリアムは願った。
それで、無礼にならない程度に中座の機会を探していると、
丁度画家のセルジョが近づいたのを理由に、その場を離れることができた。
「年寄りの話は、えらく退屈なものさ」と、
セルジョはシャンパンの充たされたグラスをマリアムに渡しながら言った。
「君のセクシーな声とカルメンに乾杯!」
二人は腕を組み交わしてグラスを乾した。
「ゴヤがね、マハを裸にしたのがよく解る,と云っても、君は僕のために脱いではくれないだろうな」とあらぬことを口走りながら、例の耳障りなけたたましい声を立てて笑った。
気心の知れた友人でなかったら、マリアムの右手はセルジョの頬に赤痣を遺していたであろう。
「脱いでくれ、とは言わないが一つお願いがある、そのバラを僕にくれないかい?」と、マリアムの手首のバラを指さした。
セルジョはマリアムにとってはごく気の置けない友人の一人であった。しかし画家としての彼の作風は、決して彼女の好みではない。それでも時々は彼のギャラリーに出かけることはあったが、馬の美しさに取りつかれたと云って、テーマは馬に絞られていた。
セルジョは長身で栗毛のたいそうな美男ゆえ、口さえ開かなければ十八世紀の騎士さながらである。だが、擦れて上ずった悪声を伴った、彼好みの恐ろしく現実的で俗っぽい話題は、屡々仲間たちの顰蹙をかい、止まるところを知らないそんなオシャベリに堪り兼ねた友人の一人が「セルジョ、お願いだからちょっとの間黙ってくれないか」などと言っても、少しも悪びれる様子もなく、甲高い声で笑い飛ばすのであった。
 マリアムは、セルジョの子供じみた要望に応えるべく、手首からバラを引き抜いて渡そうとした、と、その時、突然背後から肩越しに長い腕が伸びてきて、あっという間もなくマリアムの手からバラを奪い取ってしまった。
一瞬の出来事であった。
呆気にとられて振り向くと、そこに、アンドレアが立っていた。
「君は、誰にもこのバラをあげることはできないのだよ」と、言葉を失っているマリアムを見下ろして云った。
「アンドレア、僕の方が先だよ、僕がリクエストしたんだからね」
「セルジョ、君が何と言おうと、このバラは僕のものさ」
 二人の中年の男たちが芝居じみた争いを楽しんでいるのを、マリアムは暫く眺めていたが、ギャルソンが銀の盆にシャンパンをなみなみと注いだグラスをならべて通り過ぎるのを引き留め、
「さあさあ、バラのために乾杯!」と言いながらグラスをかざして、二人の間に割って入った。
         Ⅱ アンドレアに つづく
















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