見出し画像

 霧の宴  ミラノ  Ⅰ

 十月最後の土曜日の夕べに、その音楽会は開幕された。
 マリアムは緊張を解くために誰よりも早く会場に入り、誰もいない広いサロンのピアノで、気の向くままにG.フレスコバルディをかなり長く弾き続けた。何時も、G.フレスコバルディは何故か彼女の心を落ち着かせてくれる。

 演奏時間が近づくにつれ、マリアムの心に、或る不思議な感覚が忍び寄っていた。ー今、アンドレアには会いたくないー
それは何処からやって来たのだろう、そして何故?
 知ってか知らずか、アンドレアもまた彼女の前にその姿を現すことはなかった。
 舞台俳優のマリアムの演奏は演技者としての表現に貫かれていたが、コントラルトの漆黒のトーンであるも拘らず、その変容を操る声の色調の効果が楽曲に 深い陰影をきざむ、それは彼女が最も得意とする表現術であった。
 やがて最終の曲になり、ナレイターが李白の<望郷>を簡単に解説したあとで冒頭に書かれている、アンドレアのマリアムに捧げる、という件りを読むと、一瞬会場にどよめきが広がった。
 そうして<望郷>は演奏に入った。
 かなり長い前奏部が進んで行くうちに、突然マリアムはそれまで経験したことのない不思議な精神状態に曳き込まれてゆくのを感じた。
 熟考に熟考を重ね練り上げた表現は跡形もなく消え失せ、ただ夕凪の海の表皮を滑る船のように、彼女の声はそれ自体が意志を持っている生き物のように広がってゆく。マリアムには自分が謡っているという感覚が無かった。が、自分の声が会場にいる一人一人に吸い取られてゆくような奇妙な感覚に襲われていた。
 やがて、ピアノの後奏部の最後の音が楽曲の終わりを告げた時、伴奏を務めた作曲家の友人もマリアムも、瞬間凍結したようにそのままの姿勢を崩すことが出来なかった。何も聞こえない、何も存在していない、その茫漠とした世界は永遠に続くかのようであった。
 どれくらいの時が流れたのであったか、、、ハッと我に還り、マリアムはピアノの傍らを離れて、聴衆の中に埋まっているアンドレアに近づいた。
大役を果たし終えた、という達成感がようやく彼女の心を満たし、サロンの湧き立つような華やかな雰囲気を肌に感ずることができた。
 マリアムが近づくのを見て、アンドレアは席を立った。
彼の手を曳いてサロンの中央に戻ると、温かい拍手の嵐の中で、感動を隠し切れないアンドレアは拍手が中断するのを待って、万感の思いを込めて口を開き
「ただ一言、、、、マリアム、ありがとう!」
 とかすれた声で云った。
 マリアムはアンドレアの成功が大層嬉しかった。役者仲間のアドリアーノの、彼女に対する大げさな賛辞はむしろ煩わしく、自分はただあの魂の媒体であり、媒体としてその役目を無事に果たし得たということに、この上もなく幸せであった。
 その夜のレセプションの後で、アンドレアはマリアムを家まで送ったが、表門のところで「Buona notte」の挨拶の後で、彼女の耳元に低く囁いた。
「君(Tu)は、僕にTuで話してくれなければいけないよ」

 十一月三十日は、聖アンドレアの聖人記念日である。
 ふと思いついて、ごく気軽な悪戯心から、マリアムはA-N-D-R-E-Aのアルファベートを行の頭に置いた短い詩を作り、アンドレアに送った。
<アフロディーテは地中海の泡に生まれ>
<波が運んだ詩人の、その罠は、、、、>
と始まるたわいもない六行詩であった。
 アンドレアは大層喜んで、日曜日の午後に電話をしてきた。
「あれに曲をつけようと思うのだけれど、思いのほか難しい。冒頭のフラーゼはこんな風に」と受話器の向こう側から小声で歌うのが聞こえてきた。
 
 その冬は、スカラ座のシーズン開幕の初日十二月七日(ミラノ市の守護聖人 聖アムブロージョの記念日)や、市内で催された様々なコンサートで
マリアムはアンドレアの姿を見かけることがあったが、彼は常に親しい友人や熱心なファンに取り囲まれていて、個人的な会話をする機会はなかった。
それでも、アンドレアはマリアムの姿を見つけると、休憩時間を待って取り巻く人々から抜け出しテラスに連れ出して、「アフロディーテは生まれたけれど、僕は詩人の罠にかかってしまったらしく、その先が進まない」などと言うのであった。

  恒例の巡業の日程が決まり、マリアムはスペインを皮切りにフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、オーストリアへの長期間にわたる旅をすることになって、ミラノを留守にした。
 旅の先々からは毎回そうするように、公演の合間に訪れた美術館や博物館で出会った感動した作品や新しい発見等々を親しい友人達に書き送った。
 パリ公演の合間には必ず訪れるルーヴル美術館では、毎回感動を覚える
ダリュの階段の上に置かれている<サモトラケのニケ>は、過去に何度も観ていたにも拘らず、角度を変えてながめると、たった今風を切って走りくるニケの翼の羽ばたきやその風波を生々しく全身に感じる、などと書き送った。
 C.モネの睡蓮に魅せられて、オランジェリー博物館には三日間続けて通ったとか、ウイーンのベルヴェデーレ宮殿で開催されていたG.クリムトの風景画展が大いに気に入ったので、もし許されればウイーン滞在を伸ばしたい、などと気ままに書いた絵葉書をアンドレアにも送った。
 美術は、マリアムの古い情熱である。
レオン・バクストの舞台美術やコステゥームのコレクションを見てからは、やがて自分も舞台を退いたら、絵筆を再び手にしたいという思いに強く駆られた。しかし、その時が来るまでは、単純に美を愛でるという客観的な立場から音楽同様、専門家でない自由さで堪能したい、と思っている。
 その年の巡業中最もマリアムの心に残ったのは、バルセローナのパブロ・
ピカッソ美術館であった。煩雑に展示されている膨大なコレクションの中に見つけた、無名時代の若いP・ピカッソが、その日のパンのために素描きしたと思われるレストランのメニューのイラストレイションや、粗末な紙の切れ端に描かれている、容赦なく照りつける巨大な太陽に打ちひしがれて、乾ききった大地を肩を落としてトボトボ歩く自身の姿は、深い絶望と自らを自嘲する、その頃の画家の現実ではなかったか?
そんなことを想像しながら、一人の人間の歴史とはいえ、とどのつまり人生とは茶番に過ぎないのでは、、、、、とマリアムは考えた。
 スペイン巡業中、高齢ではあったが巨匠は未だ健在であった。
しかし、年代順に展示されている作品を追ってゆくと、近年に近づくにつれ、彼はあらゆることを超越し、昇華された単純な一本の線の動きのみに己を託しているように思える。
それは、不思議にアルタミラの洞窟やタッシリに残されている有史以前の壁画を連想させる。
 人気(ひとけ)のない館内のプロムナードをゆっくりと歩きながら、それ以上でもそれ以下でもないたった一本の線に、自らの美の真理を託しているとは、P・ピカッソはこの世に別れを告げているのではないかと、マリアムは思った。そして、その予感は数か月後に現実となった。
パブロ・ピカッソという二十世紀の巨匠を語るとき、マリアムは五百年前のレオナルド・ダ・ヴィンチがそうであったように、或いは三百年前のヴォルフガング・アマデウス・モツァルトがそうであったように、彼もまた、時の流れを超越した時空を歩く達人であったのではないかと、考える。
 今度こそは、とプラド美術館を楽しみにしていたマドリド公演が変更されて、マリアムはがっかりした。マドリドには何度も足を運んでいたが、その都度何かの理由でプラドに行くことができず、悔しい思いをしていた。
期待していたのですっかり気落ちしてしまった。
フランシスコ・デ・ゴヤの後期の作品を見たかったし、画集でしかお目にかかったことのないヒエロニムス・ボシュを何よりも観たかった。彼の作意のない、途方もないアイロニーやとぼけたファンタジーは、十五世紀のシュールレアリスムであり、それに比べれば二十世紀のサルヴァドール・ダリには、余程自意識過剰な作意が顕で嫌味にさえ見えてくる。友人でありながら、ココ・シャネルがダリの作風を嫌ったのも、ある意味に置いた納得がゆく、とマリアム思う。
      つづく













この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?