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 霧の宴 ミラノⅡ    アンドレア                                            


  ある日の夕暮れ、スカラ座の角を曲がりながら、それとなくその夜の出し物のロカンディーナにマリアムは眼を目を止めた。
R.ワグナーの<トリスタン と イゾルデ>であった。
ふむ、トリスタンか、、、と思ったが、ちょっとした気まぐれ心で天井桟敷で観る気になった。飽きたら中座するつもりである。当然そうなるであろうことが予想された。というのは、十代半ばの頃、ヴィーラント・ワグナー演出による<トリスタン と イゾルデ>を、R.ワグナーを熱愛する母親のお供で観に行き、二幕で不覚にも寝入ってしまった記憶があったからである。
母親は事前にドラマのあらすじと音楽解説、このオペラを作曲するに至る
動機になったと言われる、R.ワグナー自身とF.リストの娘コジマの関係等を懇切丁寧に説いてくれていた。にも拘らず、猫の足あとのような形のスポットライトが暗い舞台の所々を照らし、どんなに贔屓目に見ても美しいとは言えない、千年の大木さながらのイゾルデとトリスタンが、ほとんど不動の姿勢で朗々と愛を歌い続け、オルケストラが延々と無限旋律のライトモティーフを演奏する嵐の中で、マリアムは遂に眠りこけてしまったのであった。
 そんなことがあってから、母親は決して彼女をRワグナーに誘うことはなかった。

 開演間際の劇場内はいつもの様に満席に近く、天井桟敷の左側のマリアムの席からは、座れば舞台は全く見えず、立ち上がっても辛うじて三分の一ぐらいしか見えない。
 程なくして場内のライトが消え、オルケストラの音調整も整い、一瞬の静寂の中、長身の指揮者が一筋のスポットライトを浴びながらオルケストラボックスの右側から現れた。
さて?何方であったか、それすらマリアムはロカンディーナを読んでいなかった。指揮者が無造作に客席に向かって挨拶し、くるりとオルケストラに向かったところでマリアムは座席に埋まり込み、目を瞑って導入部がどのように彼女をこのドラマに誘導するのか、耳を澄ませて待った。
 と、、、、、まったく予期せぬ不思議な現象が、マリアムの内部に巻き起こった。
殆ど聴き取れぬ様なピアニッシシモの低音のうごめきに、マリアムの脳裏に静かな暗い湖面が現れ、その湖面に一滴の蒼い血が落ち、それが解き放たれた細い糸のようにほどけながらゆっくりと湖底に沈んでゆく。
一瞬、彼女は自分の存在感覚を失い、頭の中が完全に麻痺して、この異様に繊細な官能の限界をさまようような音の動きに全神経を委ねた。
マリアムは目を開き、立ち上がり、それ自体が生き物であるかような音の流れを操る魔術師の指揮棒の動きを確かめようとした。
果たして、魔術師の長い腕の動きは異様に美しく、魂の根底から湧き出るマグマの現出を促すかのようである。優雅な腕の動きは、それぞれの楽器の音の彩の重なりを引き出し、左手の五本の指に絡ませ、あるいは解きほぐし、自在に操ってゆく。
 第一幕が終わり、指揮者が去った指揮台を、マリアムは瞬きもしないで茫然と凝視していたに違いない。
「休憩時間だけでも座ったら如何?」
左隣に立っていた白髪の紳士が、前列の人々が休憩のために席を離れるのを見て、外国語訛りで話しかけてきた。
「ワグネルは長いですから、、、其れに厚いオルケストレイションを追うのは、かなりの忍耐力が必要ですね」と続けた。
「あの、開演ギリギリに駆け込んだものですから、わたしロカンデイーナをちゃんと読んでいません、どなたでしょうか、指揮者は?」
「マエストロ カルロス・クライベルですよ! お気に入られたようですね、彼は唯一無二 マニフィク!」と言いながら満足げに
「私は、彼が未だ時々バレエを振っていた頃からずっと追っています。
マエストロのチャイコフスキーは、チューリヒで<白鳥の湖>を観て大変な衝撃を受けたのが最初でした。バレエ音楽の常識を覆したと云っても過言ではないと思うほど、彼のチャイコフスキーには特別な生命が宿されていて、それまで感じたことのない興奮に襲われたことを忘れることはできません。
私は、昔、彼の父君のファンでしたが、父君の深く重厚なワグネルも実に見事でした。しかし、ご子息のマエストロ カルロスには、鬼才さと云うか鋭さを感じますね」
紳士はマエストロの様々なエピソードを語ってくれたが、それらはマリアムには興味のないことであった。マリアムは頭の中にーマエストロの魂は、オリンポスの神々に魅入られているのだろうかーと、しきりに思いを巡らせていた。
 第二幕は、鋭く研ぎ澄まされた刃物の上を危うくバランスを保って歩くような緊張の連続であった。解決することのない音群の流動構成の変遷とその崩壊が繰り返されるライトモテイーフのうねりは、指揮者の深層意識の底から湧き出でて、劇場内に溢れながら波動となって広がってゆく。
それは、今までマリアムが経験したことのない、耽美で官能的な美の世界であった。身体中のあらゆる神経が、最大に張りつめられたオデイッセオの弓の様に弾き絞られ、マリマムは危うく失神しそうになった。
 やがて、満潮に達した潮が第二幕から終幕にかけてなだれ込み、ゆっくりと退きはじめ、イゾルデのモノローグ<Mild und leise wie  er lähel、、、何と微かな優しいほほえみ、、、>にさしかかった時、イゾルデの声に重なって闇の中に突然、あのサロメのつぶやきが聞こえた
<Ah! J’ ai baisé ta bouche Iokanaan !!  あゝ!お前に私は口づけしたヨカナンよ!!>

 真夜中の町を、マリアムは重力を失った物体の様にふらふらと歩き家にたどり着いた。ベッドに倒れ込んでからも、脳裏に、あの張り詰められたピアニッシシモの導入部がハープにかき乱されオルケストラに飲み込まれてゆく変動態の流れが生々しく鳴り響き、闇を見詰める網膜には魔術師の腕が優雅に音 を操り続け、一睡もできず夜明けを迎えた。
 見えない糸に手繰り寄せられて、マリアムは第二夜をほとんど舞台に背を向けるような位置に立って、魔術師の指揮棒を追った。
その時は、確かにスカラ座のオルケストラを聴いていたのだが、それすら遥か遠くにしか感じられなく、魔術師が創造する絶対美の極地に曳き込まれ、自己を完全に放棄してしまった。
 来る日も来る日も、R.ワグナーX C.クライバーのの渦の中で、マリアムの神経は異様に研ぎ澄まされてゆき、脳裏に絶え間なく鳴り響くあの音群の嵐に、夜を眠ることが出来なかった。

 最終公演の夜になって、奇跡的にプラテアの席を確保することができた。
それはただ長時間座っていられるという、現実的な慰めである。
そして、その夜もまた、重く重なる音群とその変動態を自在に操る魔術師の絶対美の堝の中に全神経を委ねると、魔術師の左手が紡ぐねっとりとした音の躍動が、マリアムを未知の感覚の深い淵から引きずり出し、R.ワグナーの嵐のなかに投げ込んでいった。
 狂喜に湧き上がる聴衆の喝采が、指揮者のカーテンコールを重ねる
R.ワグナーXC.クライバーの熱狂に中で、マリアムは誰かが自分の名を呼んだような気がした。疲れ切っていた彼女は、直には立ち上がることが出来ない。疲労の限界ゆえの幻聴ではないか、と思った。
しかし、その声はしだいに近づいて、背後から両肩に手が置かれ、その感触で現実となった。振り返ると、そこにアンドレアの顔があった。
           つづく




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