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真冬のヴェネツィア   Il vate Rosso(赤毛の司祭) 

 いったい何度、私はヴェネツィアを訪れたのだろうか、、、、
20世紀中ごろのヴェネツィアは、昨今のような低俗なツアーの観光客であふれるようなことはなかった。それでも真冬以外の水の都は、長期滞在する外国人富裕層で、優雅な賑わいがあった。
L.ヴィスコンティは、オーストリア・ハンガリー帝国時代の19世紀後半のヴェネツィアを舞台とした素晴らしい二作を遺しているが、いずれの作品にも彼が最も愛した耽美的な雰囲気が充満している。確かに、ヴェネツィアには何とも言えない不思議な頽廃の美が漂っていると、私は想う。それは遠い昔の栄華を偲ばせる貿易によってもたらされた異国文化の情緒や、華麗に爛熟したルネッサンスが、神聖ローマ帝国皇帝カルロス五世の到来で衰退の一途を辿ったヴェネツイァ共和国を象徴する黒く塗られてしまったゴンドラに秘められた郷愁なのかもしれない。それでもヴェネツィア人の耐え難い屈辱の中に、幽かに、華やかなりし頃への誇りと憧れが生き続けていたに違いない。
 私は或る年の冬、スクロヴェーニの礼拝堂を観にパドヴァに出かけた。スクロヴェー二礼拝堂の後期のジョットを見る必要があったからである。
パドヴァの大学は(これは史実であるが)、18世紀にジャコモ カザノヴァが卒業している。W、シェイクスピアの戯曲では、パドヴァは、あのしたたかな弁舌でアントニオをシャイロックから救ったポーシャの町(一説)である(W.シェイクスピア、<ヴェニスの商人>)。余談であるが、私の知人で貿易商を営んでいたE.嬢も、パドヴァの人で五か国語を操り、ポーシャに負けず劣らず見事な弁舌をふるい商売相手を煙に巻き、貿易商人として成功を収めていた。偶然彼女の商談の場に居合わせていた私は、E.嬢の話術の巧みさに目を瞠ったものである。
 せっかくパドヴァまで来たのだから少し足を延ばして、どうしても、まだ見ぬ冬のヴェネツィアを訪れてみたいという欲望に駆られた。
 冬以外の異なる季節に何度も訪れていたヴェネツィアはその日、厚い霧にひっそりと沈んでいた。時折、櫂の醸し出す水音だけがひたひたと無音の水面を物憂く滑ってゆくゴンドラを想わせる。リアルト橋の上からカナーレの水面は全く見えない。すべてが霧の中に沈黙していた。
 若かった頃、私は I Musici(イ ムジチ)が奏でるA.L.ヴィヴァルディの通常<四季>と呼ばれているヴァイオリン協奏曲にたいそう惹き付けられた。
其々の楽器のソリストたちで結成されたこのアンサムブルは、その透明な音色と心地よい明るさと、ふと陰りを感じさせる優雅さと少しの遊び心が混ざり合って、これぞイタリアのバロック音楽の妙、と私を魅了したのであった。A.L.ヴィヴァルディは、赤毛であったことから通常<Il Vate Rosso-赤毛の司祭>と呼ばれていたそうで、 16世紀、17世紀を生きたヴェネツィア出身の後期バロック音楽の華であった。殆ど同時代のA.スカルラッティやその息子のD.スカルラッティはシチリア、ナポリの出身であることからか、おのずとその音楽の質感が異なる、と私は想う。話は少しそれるが、I.ポゴレリチがピアノで奏するD.スカルラッティのクラヴィチェンバロのためのソナタは実に見事な絶品である。彼のようなD.スカルラッティに私は出会ったことがない。
A.L.ヴィヴァルディの作品には、スカルラッティ親子の,あのカラリとした湿度の低い空気感とは異なり、いつもどこか憂いを含んだ優雅さが秘められていると感じるのは、私だけだろうか?とくに、その湿った憂いを含んだ優雅さを、私は<四季>の<冬>に感じていたのである。
その日の私の冬のヴェネツィアは、真に、A.L.ヴィヴァルディの<冬>であった。
 やがて、あのバカ騒ぎの謝肉祭で冬の憂さを晴らし、しおらしく長い四旬節の到来にため息をつきながら、それでも、こっそりと<尼僧のお喋りせんべい>をかじる楽しみを,ヴェネツィア人は忘れはしないだろう。
                 M.Grazia T.




 









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