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霧の宴 ミラノ Ⅱ             アンドレア

  友人のバス歌手から、カスティリオーネ オローナでG.パイジェッロを歌うから来ないか、という誘いの電話があった。ニューヨークのメトロポリタンでG.ヴェルディの<ドン カルロ>の異端裁判長を歌い、帰国したばかりである。
聴衆をうっとりさせる、あの漆黒のヴェルヴェットの深いバッソ プロフォンドの声を暫く聴いていなかったので、マリアムは喜んで出かけることにした。それにしても、重厚で厳格な異端裁判長の後で、軽妙なG.パイジエッロのオペラ ブッファを演ずるとは、なんという表現の幅の広いことだ、とマリアムは友人の舞台人としての力量に感嘆した。
 カステイリオーネ オローナはヴァレーゼに近い山の中の小さな村である。ミラノ人達が、好んで週末や夏のヴァカンスの締めくくりの数日を過ごす別荘が点在している、隠れた宝石のような村である。別荘を持つ友人夫妻に招かれて、マリアムも幾度か週末を過ごしたことがあった。古く太い梁が歴史を語る前世紀の民家を改造したその家は、幼年時代の夏を田園で過ごした経験のあるマリアムにとっては、胸が痛くなるほどの懐かしさを掻き立てるのであった。
 友人とソプラノ歌手が演ずるG.パイジエッロは、今は廃墟と化してしまった中世の修道院の中庭で上演された。それは軽妙なIntermezzo(幕間狂言)である。友人のよく磨かれた美声とテクニックを駆使した表現の巧みさは、ドラマティックやロマンティックなオペラを歌う時とは全く異なり、洒脱さと爽やかな表現で聴衆の共感を呼び起こし大成功であった。
 G.パイジエッロの後休憩があって、友人はD.チマローザの幕間狂言の名作
<礼拝堂のマエストロ>を演ずることになっていた。
 30分の休憩時間を利用して、マリアムは修道院の外庭に出た。
初夏の頃であったが夜の空気は薄ら肌寒く、何世紀も立ち続けている古木の合間を縫って満月の光が地上に複雑なまだら模様を描いていた。
 和やかに散策する人々の会話からは、友人の演奏の格調の高さや美しい声への称賛が窺え、マリアムはたいそう満足であった。ゆったりと満ち足りた気分で歩を進めてゆくと、突然背後に足早に近づいてくる人の気配を感じ、振り向く間もなく大きな柔らかい手がマリアムの眼をふわりと覆った。
悪戯っぽくクスクス笑いをしている。
「アンドレア!?」
「あゝ残念!どうして判ったの?」
「こんなところで貴方に逢うなんて、思いもよらなかったわ!」
「君は僕の双子の妹だってことを忘れた?君が行くところには僕も行く、僕の居るところには何時も君は居る」とアンドレアはマリアムの右腕を取って自分の左腕ににもたせ掛けながら笑って云ったが、
「本当は、君が今夜ここに来ることを知っていたのさ。あのオシャベリな共通のマエストロから聞いたのだけれど、驚ろかせようと思って君には黙っていた。ぼくは、ちょっと君にお願いがあるので、どうしても会って直接話したかったのだ。
実はね、この八月に変わったコンサートを企画しているのだけれど、絶対に君が必要なのさ、君でなければ実現不可能なのだ。会場は、ヴィッラ ボロメーオに決まっている」
「マッジォーレ湖の?」
「そう」
 ゆっくりと歩を運びながら、アンドレアが何を企んでいるのかを知りたい一心で、注意深く彼の話に耳を傾けていた。
「デ カンデイドの詩を選んでみた。何時か君がギターの演奏をバックに朗読したのを、僕はとても気に入っていたので。詩については、僕は何もコメントしないし、君も何も言わないでほしい。どの詩にするかはまだ決めていない。七月に入ってから僕のミラノのストゥーディオで、君に数回催眠術の実験を試みる。それからコンサートの前に、もう一度催眠術をかけ、二人で演奏に入ろう。君は詩を見ながら瞬時に頭の中に湧いてくる旋律を歌い、僕は僕の中に浮かぶイメージを自由にピアノで弾き出す、とまあ、こんな案なのだけれど、、、」
 マリアムは沈黙したまま歩き続けた。アンドレアが何を試みようとしているのかは、容易に想像できる。彼が折に触れ口にするように、現世では全く異なった個々の人間が、何世紀も前に一つの魂を生きていた可能性を立証しようとしているのだ。まったく異なる二人の人間の、孤絶の中の魂の共有を音楽の美の中で証明するつもりなのであろうか?しかし、あまりにも無謀な冒険ではないか、とマリアムは思った。
 即興演奏は、歴史上決して稀ではないが、それは特殊な才能に恵まれた限られた人々のみが成せる技であって、自分のような素人に出来るわけがない。俳優としての創造力、表現力に自信があるとしても、それは時間をかけて作品を分析することから始まり、思索、熟考を繰り返しながら完成させてゆくのであって、音楽における即興的創造などは、マリアムにとっては、踏み込んではならない領域である。
 歩みを止め、アンドレアの顔を見上げ、マリアムは口を開こうとした。だが、穏やかに自信に満ちた微笑を含んだ眼差しと、右腕に伝わってくる或る確かさに、マリアムは拒否する言葉を口に出すことが出来なかった。そして
頭の中に不意に起こった感覚が、意思を押しのけ「舞台の上で危険を伴った冒険に、屡々好んで挑戦したことがあったではないか、、、、」と囁いた。
「わたしには想像もできない試みだけれど、面白そうねえ。
貴方はわたしを買い被り過ぎていると思う。でも、わたしを信じて下さってのことだから、、、」
「あゝ、マリアムありがとう!君なしではこの企画は実現できない。僕にとっては、とても意味のある大切な試みなのだよ」
「でも、ご存知のようにわたしは音楽家ではないから、この実験には到底責任は持てません、と、これだけは分かってください。失敗したら、逃げ帰ってくればよいのね?」
「君は泳げるかい?」
「ええ、魚のように泳げるわ、でもどうして?」
「口笛が鳴って、トマトか生卵が飛んで来たら、二人とも窓から湖に飛び込んで逃げよう!」
「<宮殿からの逃走>というわけね!」
その時、二人にはその遁走する自分たちの滑稽な姿が見えるようで、声を立てて笑った。
          つづく


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