記憶の行方
茫洋と、ただ茫洋と、空が広がっているから、彼は何故ここに立っているのか思いだせないでいるのだ。たぶん…
大切な用件があって、家を出たような気がするのだが、さて何だったか…
そうだ、歌ができたんだ、短いけれど素敵な歌が。
どうしても、あの子に聞かせたくて、家を飛び出したんだ。
たしか、あの子の家は、この通りをまっすぐ、パン屋さんのところを… それともケーキ屋さんだったかな…
前を通ると、甘くて香ばしい香りがしていた…
あの子の家は… どこだろう…
あれっ?
あの子って、だれだっけ?
茫洋と、ただ茫洋と、空が広がっているから、彼はあの子のことを思い出せないでいるのだ。きっと…
向こうから男の子が駆けてくる。知っている子かな、知らない子かな…
腕をブンブン振り回しながら何かを叫んでいるけれど、よくわからない。
あんなに急いで、転ばないといいけれど…
「じいちゃん!
じいちゃん!
ここにいたんだね、じいちゃん、この場所、好きだよね。」
男の子は、僕に話しかけているみたいだ。
僕は、「じいちゃん」っていう名前なのかな…
この子は誰だろう?
見たことのあるような、ないような…
茫洋と、ただ茫洋と、空が広がっているから、彼は自分の名前を思い出せないでいるのだ。おそらく…
男の子がニコニコしながら話すから、僕はなんだかとても嬉しくなる。
「じいちゃん、母さんがね、夕飯はコロッケにするってさ。じいちゃん、大好きだよね。
母さんね、じゃがいも、たくさんつぶしてたよ。」
コロッケ… コロッケ…
なんだかすてきな響きだな…
僕の大好きなもの… 大好きなもの…なんだ…
「じいちゃん、一緒に帰ろう!」
そう言うと、男の子は僕の手をギュッと握って歩き出す。
ああ、あったかいな…
男の子は相変わらずニコニコ話し続けている。
僕も思わずニコニコしちゃうな…
ああ、あったかいな…
なんだか、お腹空いちゃったな…
(じいちゃん、
じいちゃんの手、あったかいね…
この手でいっぱい僕を抱っこしてくれたよね。
自転車だって教えてくれた…
じいちゃん、
じいちゃんが僕のこと分からなくても、僕が全部覚えてるからね、大丈夫 だよ。
ああ、なんだか、お腹すいちゃったな…)
茫洋と、ただ茫洋と、空は広がっているけれど、その下で小さな記憶の欠片が、そっと手渡されてゆく。
どこにでもある物語は、今日もまた続いていくのだ。
(写真はみんなのフォトギャラリーよりお借りしました。
Melemさん、素敵な写真をありがとうございます。)
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