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野菜を食べよう

野菜は好きです。特に、調理された野菜は基本的に何でも好きです。
一部苦手なものもあります。

野菜は好きなのですが、調理はめんどくさいです。しかも、意外と高いです。例えばもやしは、ひとパック20円くらいですが、一人前の量で20円です。大根やその他根菜、葉菜を切り分けた時のコストと比較すると、目立って安いわけでもないことに気が付きました。

お肉はもちろん高いです。美味しいですけど、高く、少なくとも僕は身銭を切るほどの価値は見出せません。

実のところ、調理は好きです。もともと何かを作ったり、実験を行ったりすることは好きです。

しかしながら、現実的な側面から考えた時、調理には時間と手間を要します。

楽しいから、安いから、という観点のみを考慮して取り掛かるのは、ちょっと、時間的リソースを度外視しすぎな気がします。


以前は、義務的に料理や掃除、その他家事などを毎日行うようにしていましたが、それらは必ずしも必要がないことに気が付きました。

つまるところ、生存できればよいのです。

ここで、今の社会で生存を続けていくと決めたのなら、お金が必要です。

お金を稼ぐために働くわけですが、会社が意義とするものに不都合が生じない範囲で在れば、何かをしなくてはならない、なんてものはないのです。

例えば、部屋が汚くても、お風呂に入らなくても、仕事や、仕事に伴う人間関係などの諸問題に影響が出なければ問題ないのです。

極端ですが、お風呂なんかは、臭すぎたり、不潔すぎたりすることで、人に不快感を与えるなど、よっぽどひどい状態になる前に、定期的に入ればよいというだけで、毎日の入浴が絶対必要とされているわけではありません。

このことに気がづいてから、強迫観念が緩和され、以前より楽に生きられるようになりました。

そのかわり、以前より、部屋は汚くなり、お風呂に入る頻度は減ったし、食事も無頓着になりましたが、自分自身の意義を満たすために、それらが必須なわけではないので、どうしても気になったときに取り掛かればよいだけです。

少なくとも今は、僕には自分の意義を満足させるために行いたい事項がいくつかあり、そちらを優先させているということです。

もともと几帳面で綺麗好きなので、いつかは今の生活習慣について何とかするときがくるとは思いますが、少なくとも自分にとってはそれは今ではありません。

仮にあなたが、文化的な生活を送るうえで規則正しい生活は必要だ、と言ったとしたら、僕とは立場が違うため、私には当てはまらない、という話になります。

今の僕にとって規則正しい生活が文化的に必須とは思わないし、そもそも今は文化的な生活を望んでいるわけではないからです。

もしここであなたとの関係に不都合が生じ、自身の意義を満足させるためにマイナスとして働く具合が大きいのであれば、そこで新しく対応策を考えます。


さて、最近はカロリーメイトしか食べていなかったのですが、ついに日常生活において不都合を感じるようになったので、野菜を優先して摂取しようと思いました。

最近、おなかが痛く、身体の調子が悪くなったんですよね。

カロリーメイトは手軽に食べることが出来て、カロリーをまかなえて、便利なのですが、さすがにそれだけを食べ続けるのは健康上よくなかったようです。

カロリーや基本的な栄養素に関してはまかなえていたつもりでしたが、おそらく、食物繊維が不足していたために体に不都合が生じたのではと思いました。

なので、今日から、お昼ご飯は社員食堂で野菜中心のメニューを選んで、食物繊維の不足を補っていこうと思いました。


今まではそれで不都合なかったのですが、何か不都合が生じ、改善させたいと思い、その必要性が大きくなったので、新しいシステム を導入しました。

この流れは、科学の進歩と非常に酷似していると思いました。 長々と日記を書きましたが、今回 のテーマはこれになります。

今日は、科学的主張が絶対的な妥当性を持つような社会と思います。

それが良いことか悪いことかは、今回の問題ではありません。

しかしながら、なぜ科学が成り立つのか、どのように発展したのか、どうして絶対的根拠として利用されているかということについて、一定の理解を持つことは大事です。

なんとなく、いまの社会を見ていると、科学とは何かを理解していないように思える人が、簡単に「科学的ではない」「科学的根拠は何ですか」などと、科学を引き合いに出している場面が多いように感じました。実は、僕自身も、理系出身でありながら、このことの本質について理解できていませんでした。

今回は問題提起だけです。

じゃあ科学とはいったい何なのか、というような、核心的な部分が気になってしまった方には歯がゆい思いをさせてしまい申し訳なく思いますが、これについて、きちんと論理にのっとった解説をする記事を製作中ですので、楽しみにお待ちいただけると嬉しく思います。

いつもやるやる言って、結局やらないこと多い気がしますが、今回はきっと、高い確率でコンテンツ化できると思います、笑。

テーマは決まっていて、書く内容の方向性もほとんど確定しているのですが、いかんせん量が多くなってしまいそうです。

少なくとも10000字は超えてしまいそうで、どのような形でコンテンツ化したら皆さんにとってわかりやすく説明できるか、などを考えています。

noteの方には一挙に、一つの記事として公開するつもりではあるのですが、YouTubeの方はどうしようかな。

あと少々の懸念と思っていることがあって、「哲学と科学」がテーマの記事になるのですが、おそらく、絶対といっていいほど僕のYouTube登録者層には響かないであろうテーマである、という点です。ただまあ、はっきり言ってこれについては全く気にしていません。僕がやりたいことをやって、離れて行ってしまうのは悲しいですが、それは僕が問題にすることではないですからね。

ただ少なくともチャンネルは分けようと思っていまして、現「薬物中毒克服チャンネル」の方を、チャンネルは据え置きで新生し、そこに少し難しめのテーマのコンテンツを投稿していこうという方針を考えています。

「科学と哲学」というテーマは、一見うさん臭く、しかも、なんとなくいまさらのように感じる方は多いかもしれません。

しかし、このテーマについて理解することは、僕にとって大きな意味があったので、まず皆さんに共有したかったのです。

今後のチャンネル運営としては、まず意義を明確にして、論理的な思考を行うことの重要性を認知してもらい、その後は、薬物中毒者としての視点からの社会的問題の解説や、理系的側面からの単純な科学の解説を行い、それらを通して、薬物の使用に頼らずとも日常を送れるようになるための考え方や、人生に苦しみを覚えつつも、暫定的に生きるという選択を取っている人に、人生の意義を見出すための考え方を提供する、といったことを目標と考えています。

扱う内容は、はっきり言って今までと大きく変わることはないです。ただ、今までの僕は、論理的な解説というものをしっかりと認識していなく、個人的にどこかフワフワしてるんだよなぁ〜と漠然と感じ続けていたのが気になっていたので、論理的とはなにか、というのを理解した今、論理にのっとった解説として妥当性が高いか、そうではないかという点でチャンネルを分けて、区別してスッキリしたい、と思ったのが本心です。

ちなみに、良いことしたい、みたいなことは一ミリも考えてないので、安心してください(?)

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