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新聞人 原田兵次郎「やまと時評」を読む

はじめに

 平成三十年に出版された『古都に吠えるー地方紙奮闘』古京遥著(青垣出版)は元奈良新聞社社長の渡辺忠夫氏が駆け出し記者の頃の体験をもとにした小説である。

 奈良県知事を八期つとめた奥田良三氏(木村 小説中の名前以下同)や奈良市長時代、近鉄奈良駅前に行基菩薩像の噴水を設置した鍵田忠三郎氏(中沢)が登場する。そして、昭和四十年に大和タイムス社(現奈良新聞社)の社長に就任した広芝義賢氏(芝崎)と新人記者、渡辺氏(岬)を中心に物語は展開するのだが印象深い人物として大和タイムスの副社長・主幹の原田兵次郎(石黒)が紹介されてゐる。

 昭和六十三年から平成元年にかけて一年間、同社に在籍した私は、当時社長、専務だつた広芝氏、渡辺氏と顔を合はせる機会はあつた。しかし、原田氏については私の入社時には既に亡くなられてゐたので全く面識が無い。しかし、どういふ理由か私は原田氏の名前を知つてゐた。

会社の資料室で「大和タイムス」の創刊号から遡つて読む機会があり、その折に署名記事を読んだのだと思ふ。

一言で言ふと原田氏の書かれた「やまと時評」は面白かつた。

「奈良県人は閉鎖的か」「ママごと遊びの法廷闘争」「機運熟さぬ阪奈和合併」また鍵田奈良市政を批判した「行基菩薩像問題」「無意味な座禅の強制」等、如何にも人の目を惹きさうな題名だが「大和タイムス」一面の左肩に四段見出し、千二百字前後の「やまと時評」(署名入り)は毎日の新聞紙面に一種の風格を与へてゐたと思ふ。

 最近、思ひ立つて奈良県立図書情報館を訪れ、原田氏が書かれた『大和タイムス』、『奈良日日新聞』の論説文「やまと時評」、「奈良時評」を読んでみた。以下、原田氏が書かれた論説を紹介したい。

 

□「やまと時評」

 まづ、原田兵次郎氏どのやうな人生を歩んだ人物なのか氏の訃報を伝へた『奈良日日新聞』からその略歴を紹介する。

 

 明治四十二年四月二十五日橿原市生まれ。青年時代から農民運動に参加、昭和七年の8・30事件で入獄。その後ジャーナリストを志し、旧奈良新聞、新愛知新聞、中部日本新聞などの記者、その間二度にわたつて応召。朝鮮とビルマに出征。戦後は農地解放事業など農村民主化運動に参画。県農地委員を永らくつとめた。昭和二十九年大和タイムス社(現奈良新聞)に論説委員として入社、同社論説主幹、副社長を経て四十七年十月奈良日日新聞社に入社。同社主幹として論説「奈良時評」を執筆。この間県の古都風致審議会、公害対策審議会、屋外広告物審議会、文化財保護審議会、同和対策協議会、青少年問題協議会、奈良市の国際文化観光都市建設審議会など多くの委員のほか県農業会議議員として農地・農政両部会員を兼任。『奈良日日新聞』(昭和五十四年八月二十一日)

 

 略歴を見てわかるやうに原田氏は昭和二十九年から社説を書き続けてゐるわけだが昭和四十四年一月十二日から始まつた「やまと時評」はそれまでの社説と大きく異なる。その辺の事情を原田氏は「論説欄の変更について」『大和タイムス』昭和四十四年一月十一日「論説欄の変更について」で次のやうに記してゐる。「要は少しでも興味深く読んでもらうというのが本来の目的である。(中略)これまでのような無署名を廃して執筆者名を明記することにした。(中略)署名入りにした方が少しでも個性的な味を出しやすい」

 私は図書館のマイクロフィルムで「やまと時評」に一通り目を通し、「やまと時評」以前の「こう思う」等の社説も幾つか読んでみたが「やまと時評」の方が文字数も多く、署名入りではるかに迫力がある。原田氏の意図は当たつたと言へると思ふ。

 「やまと時評」はおそらく全国的に見ても極めて個性的な「大和タイムス」の「顔」となつた。実際にその内容を見ていきたい。

 

□大学紛争

 昭和四十四年は大学紛争が吹き荒れた時期であり、原田氏は第一回の「やまと時評」でこれを取り上げてゐる。

 大学紛争問題を取り上げた場合、大学自治は治外法権的な意味での絶対不可侵なものではなく、ほんらいきわめて相対的なものであることを指摘し続けてきた。(中略)ところが残念なことではあるが“大学自治”を絶対的な観念にまで昇化させてしまった大学人たちは、教授も学生も、そして学外の文化人たちをもふくめて自治の観念に呪縛されてしまい、現実に自治そのものがふみにじられ破壊されているのに、なおかつ自治の名におそれをなして思い切った措置をとる姿勢を欠き、事態を悪化させるにまかせたのである。「精神の呪縛を解きはなせ」(一月十二日)

 原田氏はこれ以降、東大の大内力教授つるし上げと立命館大学の末川総長が出席した団交の模様を「進歩派の悲劇」(二月十四日)と記し、奈良教育大学の紛争について大学の自治の独断的幻想のもとに、反社会的な行動をするなどは絶対に許されない「教育大問題と県民感情」(二月十五日)と断じてゐる。また「学園紛争の被害者は誰か」(三月十一日)では「誰が一番の被害者だったか(中略)学ぶべき時に学業を怠った当の学生以外の何人でもないことだけはたしかであろう。」と指摘してゐる。そして「実際に紛争の中心となり、これを動かしているのは、口には大学の改革らしきことをいいつつ、その実、大学を反体制の拠点としての”解放区”たらしめんとする一派である。」「革命ごっこはやめよ」(三月二十一日)と断じ、「小学校教員養成所設立に対する承認と協力を拒否した奈良教育大学教授会の決定ほど、軽率きわまるものはあるまい。」「軽率なる教育大の決定」(三月二十五日)と批判してゐる。

 

 当時、奈良教育大学について連日のやうに一面で批判してゐる「やまと時評」は奥田知事や鍵田市長等も注目したのではないだらうか。原田氏はこの年(昭和四十四年)一月一日、大和タイムス社主幹として同紙上で奥田知事と対談をしてゐるのである。

 「やまと時評」は奈良県立医科大学も批判してゐる。

 

 医大の学生たちが何と心得ているかしれないが、そもそも、この大学のために毎年数億円の県費を支出しているのである。これらの経費はことごとく県民の血税になるものであり、地から湧いたものでも天から降ったものでもない。一人の学生のために年間百五十万円もの負担をして維持経営されているのである。(中略)にもかかわらず、勝手な要求をして学生の本務である学業をたとえ一日たりとも放棄するがごときは、われわれ県民に対する挑戦でなくて何であろうか。こんな大学はただちに廃止するか少なくとも一定期間閉鎖するほかない。「県立医大紛争と県民感情」(四月二十六日)

 

 まことに尤もな論説だと思ふが事態は思はぬ方向へ発展する。

この紛争は医大の教室の黒板を中央にして左右に設けられてゐる教材用掲示板に「四・二六~二八沖縄解放闘争を全奈良医大生は全学ストで闘い抜け」と書いたビラを伊藤学生部長が破り捨てたことを同大学の自治会が問題視したことが発端だつたのだが当の伊藤部長が辞任することになり、原田氏は「不可解な伊藤部長の辞任」として大学側の姿勢を批判し、同時に学生が主張する三十人の教授と二百五十人の学生による「大衆団交など、狂気の沙汰以外の何ものでもない。」「大学紛争と大衆団交」(五月四日)と断じてゐる。

 「医大を廃止せよ」といふ主張には同大学の学生自治会も黙つておれず、原田氏のもとへ二千字近い抗議文を送り付けて来たと言ふ。

これに対し原田氏は(やまと時評に対し)「県内各界各層の人たちから予想外に共感の声がよせられた。これは(中略)県民感情のあらわれである。」「医大自治会に答える」(五月十日)と一蹴してゐる。

 ところが医大の学生自治会は五月十六日、奈良市内でデモを行ひ、県庁や県議会に押しかけて知事や議長との面会を要求して気勢を上げた。原田氏はこれに対して「少なからざる負担を県民に課しながら、学生から安上がりをうんぬんされるような大学であるならば、この際思い切って廃止するのが県民のためではないのか」「県と医大の見解を問う」(五月十八日)と再び主張してゐる。

 以下「やまと時評」が大学紛争に関連して論じた内容を列記する。

県立医大が中教審の答申も含めて大学立法に対して全学ぐるみで反対声明を行つたことを批判した「県立医大と大学立法」(五月二十七日)、奈良女子大学の文学部の先生たちが大学立法反対の声明を発表したことを批判した「事実に目を閉ざすな」(六月六日)、大学立法に反対する東大の正式見解を読んで書かれた「東大にその資格ありや」(六月十三日)、東大寺学園の高校生五十人が奈良市内で安保反対のデモを行ふことを論じた「高校生の安保反対デモ」(六月十四日)、東大寺学園の高校生のデモに続いて奈良女子大学付属高校生四十人の同様のデモについて論じた「悲劇か喜劇か」(六月十八日)、大学立法に対する真の国民世論を説いた「大学問題と声なき声」(六月二十一日)、大学そのものが直接的には社会生活、その基盤である産業や経済とは関係ない存在だといふことを論じた「平凡な真実」(七月一日)、六月県会で医大問題について質問をした議員が一人もなかつたことを批判した「正常化未だしの県立医大」(七月九日)、学生側の主張を百%認めた県立医大側を批判した「ますます異常な県立医大」(七月十七日)奈良教育大学で五月に完成したばかりの新館の階上が反代々木系の二十人ばかりの学生によつて封鎖されたことを論じた「封鎖は児戯に類する」(七月二十日)、安保条約とそれをめぐる日本の安全保障上の諸問題を冷静に考へることを説いた「その前にすべきこと」(七月二十三日)、大学法案の強行採決について論じた「木をみて森をみず」(八月五日)、神戸大学の封鎖解除について論じた「いつまで続くぬかるみぞ」(八月十二日)、正門封鎖で予定されていた八日の前期試験が出来ず、九日の試験も中止になつた奈良教育大学について論じた「決断を迫られる奈教大」(九月十日)、夏休み前に行はれた新館封鎖や八日早朝の正門封鎖に対する奈良教育大学の無為無策を批判した「無為無策すぎた奈教大」(九月十一日)、大学紛争に対する大学側の無策と一般学生の無関心を嘆じた「自主解決できるか」(九月十二日)、大学側が自治を主張しつつ、自治の能力が無いことを指摘した「重症段階の奈教大」(九月十四日)、奈良教育大学の紛争について大学側の責任を問ふ「全学集会で好転できるか」(九月十九日)、奈良教育大学に対して機動隊の導入か廃校かを迫る「奈教大は廃校願いを出せ」(九月二十一日)、京大が機動隊の導入にふみ切り、奥田総長の持論、自主解決方式が完全に破産したことを論じた「自主解決方式の破産」(九月二十三日)、奈良教育大学に機動隊が出動し、封鎖が解除されたことを論じた「今こそ正常化への努力を」(九月二十五日)、奈良県立医大の全学協議会の問題点を指摘した「前途多難の医大学協」(十月十七日)奈良県立医科大学が大学運営に関する臨時措置法の形骸化をめざすとの声明を発表したことを難じた「不可解な医大声明」(十月二十二日)、学生ゲリラの火炎ビンの危険性を批判した「火炎ビン闘争の反人道性」(十一月十五日)、原田氏の「大学に自主解決の能力がないから廃校願ひを出せ」との主張を短絡的だと批判する匿名批評に対する反論「君子と下司の違い」(十一月二十五日)、「造反有理」について悩む高校教師について紹介した「ある教師からの手紙」(十二月二十三日)

驚くべきことに原田氏は大和タイムス主幹として毎回、千二百字前後のこれら論説を一人で書き続けたのである。

他紙との比較もしておきたい。

「朝日新聞」(奈良版)は「紛争指定校に驚く両大学」「自主努力を強調 奈良教大」(八月十八日)といふ四段見出しの記事を書いてゐる。

 これは奈良教育大学と奈良県立医科大学が昭和四十四年八月十七日に施行された大学の運営に関する臨時措置法で両大学が「紛争校」に指定されたことに違和感を持つてゐる(つまり紛争校ではないと主張する)大学側の反応を伝へた記事である。

しかし、その一か月後の九月に、奈良教育大学が機動隊に出動要請をしたことを考へると「朝日」の記事は教育大学の楽観的な見方をそのまま伝へただけで洞察力に欠けてゐたと言はなければならないだらう。

 当時の全国紙等を見てゐると紛争を起こしてゐる学生達に対して好意的な記事が散見される。一部紹介する。

「全学連中核派の“マジメ特訓”妙義山も驚きました」「熱っぽく安保・沖縄」『毎日新聞』(昭和四十四年四月十一日朝刊)

これは群馬県の妙義山で開かれた「中核派」の合宿に新聞記者がわざわざ同行取材して書いた記事である。「せっかく妙義山まできながら、山登りひとつしない、つめこみ勉強会。(中略)もったいないまでのエネルギーと、驚嘆するばかりの勤勉さ、キマジメぶりである。」と記してゐる。

 

「中核派“武闘主義”変える」「力点、集会・デモに」「6・14」は大同団結 新左翼各派“内ゲバしない”約束」『毎日新聞』(昭和四十四年六月十二日朝刊)

記事を紹介する。

新左翼各派は十一日から“激動の二週間”に突入した。集会、デモのスケジュールは目白押しで七0年安保はいよいよ本番だが(中略)中核派全学連の上部団体、革共同の機関紙「前進」の最近号から「武力闘争」の文字が消えた。(以下略)

何やら新聞記者自身が七0年安保に際して新左翼各派の“活躍”を期待してゐるやうな記事である。。

 一方、『大和タイムス』の記事は対照的である。

「全関西ゼミ開く 民族派全学連」(昭和四十五年三月三十日)

 毎日新聞の記者は中核派の合宿を取材して記事にしたが大和タイムスの記者は奈良県の吉野町で民族派全学連・関西学協「第五回関西学生ゼミナール」を取材して記事にしてゐるのだ。

 当時の「大和タイムス」は「やまと時評」だけで無く、その記事においても古都奈良に相応しい保守的な論調だつたと思ふ。

□「君が代」問題

 昭和四十五年三月には「君が代」問題が発生してゐる。

 

 「「君が代」「歌いたい」生徒側「歌わせない」学校側」「卒業式の斉唱で対立」「田原本中学 父兄側からも抗議」『大和タイムス』(昭和四十五年三月十九日)以下、記事を紹介する。

  十八日行なわれた田原本町立田原本中学(中島深校長、生徒八百八十五人)の卒業式で『君が代』の斉唱をめぐるさわぎが激しくなったため、卒業式が始まる前に、一時混乱するという事態が起きた。君が代を歌いたいとのぞむ生徒側と、歌わせまいとする学校側、それに、生徒の希望を受け入れよと申し入れる父兄側の三者の意見がいり乱れたため。

 この問題の本質は池田武夫県教育長の談話に尽きる。

「学習指導要綱に入学式、卒業式などの儀式を行なう場合は、児童に対し、これら儀式の意義を理解させるとともに国旗を掲揚し、君が代を斉唱させることが望ましいと規定されており、当然これに従って指導すべきである。」(同記事)

 「やまと時評」は連日のやうに論陣を張つてゐる

「田原本中の“君が代”問題」(三月二十日)、「 “君が代”問題と校長の責任」(三月二十六日)、「すりかえたのは誰か」(三月二十七日)、「教師としての倫理観を疑う」(三月二十八日)、「田原本中の偏向教育問題」(四月七日)、「何のための時評提出か」(四月九日)、「県教委と田原本中問題」(四月十一日)「明白な事実の評価が問題」(四月十五日)、「田原本中問題の解決」(五月二十八日)、「何のための非難声明か」(五月三十一日)

 君が代斉唱に強硬に反対した一人の谷彌兵教諭が卒業式には欠席して京都府知事選の応援に行つてゐたこと明らかにして、これを徹底的に批判すると同時に「責任を感じて辞表を提出した」と言ふ田原本町教委四委員に対しても「混乱の度を深めるだけだ。」と批判してゐる。

 最終的には三者(学校長、新旧育友会長)声明を発表し、生徒から父兄に配布された。声明文の中には①京都府知事選応援問題については父兄の批判通り、卒業式に列席すべきであつたと当事者は反省してゐる。②学校長は学習指導要領に準拠して教育をその責任において行ない云々との文言が明記されてゐる。

 この声明について「朝日新聞」(奈良版)は「声明書に多くの疑問点 奈教組“君が代問題”で見解」(昭和四十五年五月二十九日)として奈教組の見解をそのまま紹介した。

①   声明書の作成まで教職員との話合いをほとんどしていない。②

声明書案文が職員会議に提出され、全教職員が内容に反対したが審議は一時間で打切られた。③校長は一方的に声明書の配布を決め、職務命令で教員に配布させている。④あら問題を大きくした田原本学校教育正常化推進協議会の責任には声明書は全くふれていない。

 一方、「やまと時評」は吉岡育友会長や河原校長が(奈教組が言ふ)一方的解決説を事実に反すると証言してゐることを紹介しつつ「今度の田原本中学問題は、君が代問題に関する学校側の不手際や、卒業式に欠席してまで京都府知事選挙応援にいった教師があったから起きたのである。」と改めて奈教組を批判してゐる。

 

 □をはりに

以上、見て来たやうに「やまと時評」の特徴は大学紛争や「君が代」問題等、原田氏が一つ問題に対して徹底的に追及していく姿勢にあると思ふ。記事が書かれてから四十年以上経過してゐるが紙面は今見ても迫力がある。

 ところが原田氏は昭和四十六年九月末で「大和タイムス」を退職し、「やまと時評」も終了する。退職の理由は経営方針を巡り、広芝社長と原田副社長との考への溝が埋まらなかつたためだと言ふ。

 翌十月一日、原田氏は『奈良日日新聞』岡田正男社長に同社主幹として迎へられ、『大和タイムス』同様、一面に「奈良時評」といふ欄を担当することになる。

 私は「奈良時評」も一通り目を通した。「自衛隊いじめ」(昭和四十七年十月二十七日)といふ自衛隊を擁護する論説等、原田氏の健筆は相変はらず冴えてゐる。しかし、「奈良時評」では「わが交遊録」といふ原田氏と交遊のあつた奈良の政財官界、新聞界、芸術界、花柳界の人物月旦が百五十回も続き、これはこれで大変興味深いのだが「やまと時評」の頃のやうな一つの問題を執拗に追及するといつた姿勢は見られなくなつた。

 「やまと時評」の頃も「西光万吉氏の思い出」(昭和四十五年三月二十二日)といつた味はひ深い文章を時折、書かれてゐた。「奈良時評」でこのやうな文章が増えたのは原田氏の年齢にもよるのかもしれない。

 しかし、私は「やまと時評」に一時期、見られた保守的な立場から一つの問題を徹底的に追及していく姿勢は新聞の一つの理想的な姿だと今も思つてゐる。

     

                令和三年九月二十六日記

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