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【読書記録】上野正彦『死体が教えてくれたこと』【死者の声を聞く】

監察医の著者による、人生の、命のお話。
戦争体験も交えた内容は、まさに「10代の頃に読んでいたかった」本。

監察医という仕事を知っていますか?
生きている人ではなく、死者を診る仕事です。
私は監察医として、2万体の死体と語り合いました。
事件や事故の裏で活躍する監察医の存在を知り、命の尊さについて考えてみてください。

著者メッセージより。


なんとなく生きていると、こうやって平和に暮らしている奇跡を忘れてしまいます。
健康の尊さも、日本が平和な尊さも、それが失われて初めて気づく。
贅沢な暮らしをしている、そのありがたみを時々思い出さねば…と思います。

以下、心に残った部分を引用します。

 その朝は「都電から転落死」という記事が目に入った。年配の工員が、夜勤のために近くの店に夜食を買いに出かけた。それから乗った満員電車が停留所でとまったとき、背にしていたドアが開いて、そのおじさんは買い物袋を抱えたまま、うしろ向きで道路にころげ落ちてしまった。打ちどころが悪かったのだろう、そのまま命を落としてしまったという記事だった。
 医務院に出勤すると、新聞記事になっていた事案が検死の受付箱にあったので、検死に出向くことにした。
 どういう状況で死に至ってしまったのだろうか。じっくりと検死をすると、現場での死体所見と死体の状態がどうもちがっている。これはどういうことか。考えあぐねていると、おじさんが、私に語りかけてきた。
「先生、新聞記事はまちがっています」
 むろん、本当に話すことなどありえない。しかし私には、おじさんの心の叫びが聞こえたのだ。
「わかります、犯人をつかまえますから」
 と、私は心の中で答えた。
(中略)
 突然に自分の人生の幕がひかれてしまい、それも事故によるものだったのだから、さぞ無念だったことだろう。しかしこれも現場で検死した者が、ヘンだと思わなければ、単なる転落事故とされていた可能性があった。監察医はいつなんどきも親身になって、死者と向きあわねばならないのだ。
 死体は物体ではない、生きている。

p.28~31

 鎌倉時代、源義経と忠実な家来であった武蔵坊弁慶という僧兵の話で、子ども向けの本にもなっているので読んだ人も多いかもしれない。兄の源頼朝と対立した義経は、奥州(東北)の平泉へと逃げ落ちる。だが衣川というところで攻めこまれてしまう。義経を守ろうとした弁慶は、奮闘しつつも、衣川の橋のたもとで立ちはだかり最後は雨のように弓矢をあびるのである。
 まさによく知られた場面なのだが、弁慶はくずれることなく、仁王立ちをしてカッと目を見開いていた。物語なのでいさましい人物としてえがかれているが、あれは法医学の目をとおせば、死後硬直という状態なのだ。
(中略)
 では弁慶は、なぜ弓矢がささってすぐさま硬直状態となったのだろう。それはスポーツ中の急死と同じだと考えられよう。筋肉がかなりの疲労をした状態にあると、こういった化学物質が多量に発生するので、ふつうよりずっと早く強く反応を起こして、死んですぐに硬直してしまうのである(専門用語では電撃性死後硬直と呼ばれる)。
 弁慶は主君を守ろうと戦いつづけたことで、かなり疲労した状態だったのだろう。

p.37~39

 監察医となって以来、私は目の前に横たわる人を、死者ととらえたことはない。こわいとか、気持ちが悪いといった感性は、医学をこころざしたときからなかった。
 生きている人は嘘をつくけれど、死んだ人は嘘をつかない。生きている人のほうが、こわいのである。

p.44

「兵隊に行きたくない」
 などと口にしたら、なぐられたり殺されてしまう時代だった。事実、戦争反対を口にした学者とか作家や、役者などは、つかまって監獄に入れられた。入れられて、二度ともどらぬ者もいた。おそろしい時代であった。
 私の4つ上の兄は、20歳ですでに出征していた。徴兵の「赤紙」というものが届いたら、もう行かざるをえないのだ。どんなにいやであろうが、戦わなくてはならない。やがて国を守る、祖国のために戦うぞという境地になっていく。
 戦争とはそういうものなのだ。そういう自分がおそろしかった。
 人を殺すなどできない。
 同じ人間を撃つなど、これほどおそろしいことがあろうか。

p.70

「上野の家に行ったとき、皆でイチゴをいっぱい食べただろ。あのとき、親父さんが教えてくれたんだよ。『この中で、いちばんいいものから食べなさい』って。おれは、え?っと思った。親父さんはこう言ったよ。『次々に赤くなるから、食べきれないくらいだろう。いちばんおいしいものから食べると、全部を食べ終わるまで、いちばんおいしいイチゴを食べて終わることになる。いたんでいるイチゴから食べれば、いちばん、悪いものを食べつづけて終わることになるだろう、くさったのはあとで捨ててしまうわけだから』って。おれはそれを聞いて思ったよ、なるほどなあ、そういう生き方もあるんだって」

p.84

 私の家の仏壇には短冊がひとつかざってある。
『時が解決することは、自然の妙味である』
(中略)
 味わい深い言葉である。困難に遭遇したとき、解決を急ぎあせったり、うまくいかないことにくよくよしたりすることはない。じっくり考えゆっくり対応すればよいということであろう。

p.200


生まれたから生きている、と思ったくらいが生きやすいのかもしれません。
力を入れすぎると生きづらい人もいます。
あまり気負い過ぎず、楽しく生きたいな~としみじみ思いました。

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