【お題小説】19.割れた懐中時計はまだ時を刻む
強い視線を感じて、ノートと参考書から目を上げた。真正面から、彼女が僕を見据えている。
「どうしたの。勉強しないの?」
僕から視線を外そうとしない彼女にややたじろぎながら訊ねた。彼女は小さく肩を竦める。
「それはこっちの台詞」
「? やってるじゃん」
「それで勉強できてるわけ?」
「『それで』って?」
「さっきからずっと、カチカチ鳴らしてる。シャーペンの芯を出しては引っ込めて、またカチカチ出して……」
まったく気づいていなかった。いや、正直にいえば、シャーペンの芯の出し入れを繰り返す行動を、自分がいつやっていてもおかしくないという程度の自覚ならあった。授業や
テスト中などでもやってしまっているらしく、先生から何度も注意されていた。彼女はクラスは別だから、交際していながらも僕のこの癖を今まで知らなかったということだ。
「ごめん」
誘ってくれたのは嬉しいけど、やっぱり別々に勉強することにしようか。今日は帰るよ。そう言いかけたけれど、
「静かなの、苦手なの?」
柔らかな彼女の声が胸に刺さって、一瞬息が止まった。
今まで「落ち着きなさい」と注意されるばかりで、こんな風に言い当てられたことなどなかった。
「なんで、僕が、静かな状況が苦手だって、思ったの?」
訊ねる声が少し掠れた。
彼女は、自分が言ったことだというのに首を傾げる。
「なんでだろうね」
小さく唸ってから、微笑んで「わかんない」と答えた。うーん、と声に出した響きがなんだかうさん臭くて、考える振りをしただけなんだろうなと感じた。
「ちゃんと考えてよ」
「考えるの、苦手なんだもん。だから君に勉強を教わってるんじゃない」
「まるでわかってないわけじゃなくて、正解してることはしてるから、『勉強を教える』って、めちゃくちゃ難しいんだけどね……」
彼女の数学のノートは、やたら白い。途中の計算式がほぼないからだ。
答えが合っていても、計算式が抜けているためにテストで減点されている。中には「カンニングしているから答えだけわかるんじゃないのか」と疑ってくる教師もいるという。
「君は今日、私に途中の計算方法を教えてくれると約束した。私は『君は静かな環境が苦手』という答えを出した。その途中も、教えてよ」
僕が教えるのは勉強の話であって、プライベート話とは別のことだ。そう拒むことも許されるはずだ。でも、僕はひとつ溜め息をついただけで、それを許容した。
彼女は「僕が誰かに話をしたがっている」という答えも、もしかしたら見抜いていたのかもしれない。
僕が、シャーペンの芯を出し入れしたり、机を叩いたり、無意識のうちに何かしらの音を立ててしまう理由。
そっと、懐から懐中時計を出してみせた。幼稚園児の手の中にも収まる程小ぶりで、銀色に鈍く輝いている。蓋には、蔦や花々が細やかに彫り込まれていた。
「懐中時計? 初めて見た」
僕の手から受け取った彼女は、ひっくり返してみたり彫刻に触れてみたりしてから、蓋を開けた。そして軽く目を見張る。
盤面には、痛々しいほどに無数の罅が入っている。もう、針が何時何分を指しているのか、誰にも見分けがつかない。決して動くことのない時計。そのはずなのに。
コッ、コッ、コッ、コッ。
「もったいないね。直したりしないの?」
コッ、コッ、コッ、コッ。気が狂いそうになるほど正確な秒針の音が脳内に満ちて、彼女の声が掻き消えかける。
コッ、コッ、コッ、コッ。
「動いて……いるんだ」
「えっ?」
コッ、コッ、コッ、コッ。
自分の声も、針に切り刻まれてよく聞き取れない。
「時計、動いて、いるんだ」
目の前の彼女は、ひそかに眉を寄せて盤面を見つめた。そのままゆっくりと首を傾げる。
「止まってるよ?」
その声が、別の声と重なって聞こえる。
『時計、止まってるよ』
刻まれる音の狭間で、幼い声が響く。
あれは昔の僕の声だ。
『ああ、そうだね』
穏やかな父の声が答える。
『でもパパには、時計の音が聞こえるんだよ』
『どういうこと?』
『大きくなったら、パパの言う意味がわかるよ』
コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ。
秒針は決してぶれることがない。けれど頭の中で反響して、音が伸び縮みしているように聞こえる。
秒針がひとつ動けば、一秒経過したということ。そのはずなのに、秒針の音がもっと違う意味を持って聞こえてくる。時間というものだけじゃない、何かを示している。
コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ。
更に奥から、声が響いてくる。
『ねえ、この時計、割れてるよ』
幼い少年の声だ。僕が生まれる前のことなのに、どうしてか僕は、この声が父の少年時代のものだと当然のように理解している。
『ああ、そうだね。でも、動いているんだよ』
これは、会ったことのない祖父の声だ。
コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ。
『この時計、壊れているよ』
『なんで動かない時計を持ってるの?』
『ねえ、時計割れてるよ』
コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ、コッ。
『壊れているわけじゃないんだよ』
『まだ動いているからね』
『割れていても、ずっと動き続けるのさ』
ずっと、ずっと、ずっと、ずっと――。
名前を呼ばれて、世界が元に戻った。
いや、世界は変わらずそのままあった。時間の流れも何も変わらない。
ただ、僕の意識が、時間も空間も超越したところに飛びかけていただけだ。
「大丈夫?」
凛とした声が、僕の意識を引き戻してくれた。
「ああ……大丈夫だよ」
僕は目を伏せる。そして彼女の手の中にあった懐中時計の蓋を閉じた。僅かに彼女の指先に触れる。少しひんやりとしていた。
「……喋ったら、少し疲れた。今度は君が何か話してよ」
「ええっ!? まだほとんど何も聞いてないよ。静かな環境が何故苦手なのか、まるでわからない」
「いいじゃないか。ヒントは出した。君ならいつか、導き出せるさ」
「まったく。いいように煙に巻かれた気分だよ」
納得のいかない表情で、でも僕からこれ以上答えを引き出せないと察したのか、彼女は、たわいもないことを話し出した。
林檎が好きだということ。けれど甘すぎては駄目で、甘酸っぱくなくてはならないということ。昔、風邪で学校を休んでいた平日の昼に、林檎売りの老婆の声が窓越しでしたということ。それは亡くなった彼女のおばあさんの声にひどくよく似ていたということ。亡くなった、といってももう何年も昔に行方不明になってそれきりだということ。
彼女の言葉は淀みなく、つかみどころもなく、どこまでが本当なのか、本当のことが含まれてすらいるのか、判別がつかない。けれど晴れた風のない春の日の海のように穏やかで、いつまでも聞いていたくなった。
シャーペンの芯を出し入れすることなく、秒針の音に連れて行かれることもなく、僕はただ彼女の話を聞いていた。このままずっと、聞いていたいと思った。
お題はお題配布サイト「腹を空かせた夢喰い」様からお借りしています。
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