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【お題小説】18.ハイヒールは折りたたんでポケットへ!

 視界の右端がふっと暗くなった。通りの向かいのカフェのライトが消されたからだった。本日の営業が終了した。夜11時を過ぎたのだ。つまりこのレストランのウィンドウ前に2時間立ちっぱなしだったことになる。卓也が去ってから2時間。よく店の人間から退くように注意されなかったものだ。
 慣れないヒールを履いた爪先が、血流が足りないとばかりにジンジン痛みを訴えている。そういえば寒い、ということにも気づいてしまった。コートの下のワンピースは、長袖とはいえこの季節には薄着すぎた。
 いつか洒落たイタリアンやフレンチのお店に行くときにと、二年前に少し背伸びして買ったワンピース。
 卓也から「大事な話があるんだ」と言われてこのレストランの予約を取ったと聞いたとき、絶対に着ていくんだと心をときめかせた。

 迎えに来た卓也の車に乗っているときから、夢心地だった。
 前菜、パスタ、メイン料理、サラダ、デザートとコースが進む間、話題はたわいないものだった。友達とディズニーランド行ったときなんだけどさ。こないだのコンパでさ。昨日、母さんと一緒に渋谷に行ったときにさ。喋りながら、卓也は朗らかに笑っていた。
 早く本題を!プロポーズして!とやきもきしながらも、私だって上手く笑えてたんじゃないかと思う。
 ソーサ―にコーヒーカップを置いて「君に言わなければならないことがあるんだ」と切り出されたとき、ようやくきた、と思った。
 卓也とは付き合って七ヶ月。期待していたよりも早かった。婚活始めて云年。めっちゃ長かった。グッバイ、お断りされ続けた苦悩の日々。
「俺たち、合わないと思うんだ。君もそう感じるだろう? だから別れよう」
 せめてそこで嫌だ別れないとごねていたら、卓也の気持ちを変えられたのかもしれない。交際を続けることが難しくても、少なくとも今みたいに放心したままぼっちで店の外に立ち尽くす羽目にはならなかったのかもしれない。しかしプロポーズされる気満々だった私は、何も考えずに「はい」と言ってしまったのだ。「別れよう」に対して「はい」と!
 卓也は、今日一の笑顔を浮かべた。
「ああ、よかった! じゃあ長居してもなんだし、出ようか。送れないお詫びに、ここは多めに支払ってあげるよ。こっちのことは大丈夫、ちゃんと代行呼ぶからさ。それじゃあ」
 厄介事はすんだ、とばかりに急かされ、お金を払うよう求められ、店の外に出され、その後どうなったのか、記憶が途切れている。
 付き合って7ヶ月とはいえ、私も卓也も34歳。プロポーズされると信じて、いったい誰が私を責められるのか。責める者は、私に刺される覚悟を持って責めるがいい。包丁で刺す傷よりも、私が今心に受けている傷の方が深い。

 ぶえーーーっくしゅん!
 鼻の奥が痛むほどのくしゃみが転げ落ちた。
 とにかく、今は帰るしかない。帰ることだけを考えよう。それ以外は何も考えてはいけない。
 右足を持ち上げ、地面に下ろす。スニーカーを履いている普段よりずっと早いタイミングで、踵が着く。ピンヒールで足首を支えるのは難しく、ゆらっと微かに身体が揺れる。爪先が痛む。足の裏も水ぶくれになっているみたいで、体重をかけるのがつらい。
 こんなみじめな思いをし続けて、何千歩も歩いていかなければならないのは、すべて卓也の……。
「うおおおおおおおおお!」
 帰ることだけ考えると思った端から恨み言が脳内から溢れて、それを吹き飛ばすために叫んでみた。案外近くで、カツカツカツカツと走る足音が聞こえた。私の声が聞こえた女性が、怯えて逃げ出したようだ。すまぬ。しかし足音からするにヒールだろうに、踵が高い靴でも走れるそのフィジカルが羨ましい。
 羨ましい。世の中のカップル共が! 
 羨ましい。婚活に成功した勝者が!
 羨ましい。結婚しなければというこの焦燥感に駆られぬ自由人が!
 羨ましい。「羨ましい」という感情に振り回されずに生きていける器の広き者が!
 ゆっくり歩くから痛いのだ。いっそさっき逃げ出した彼女のように、走れば……。
 バッキン。
 恐ろしい音が響くと共に、バランスを崩した私の身体は無惨に道路に倒れ伏した。コートを着ていたおかげで大ダメージは避けられたが、擦りむいた掌が痛い。

 こんなものを履いて着飾っているから悪いのだ、脱ぎ捨ててしまえ!
 私はハイヒールを脱いで、コートのポケットに突っ込んだ。ストッキング一枚では到底アスファルトの冷たさを防ぎきれない。凍える冷たさが身体の芯にまで浸透しそうだ。
 足が冷たいなら、地面に触れる面積と時間を極力少なくすればいいじゃない。
 私は走り出した。水ぶくれはできたままなので、痛い。とにかく痛い。それでももう窮屈ではない。
 泣きそうなほど足の裏が冷たい。それでも足の爪先に、身体中に、血が巡るのを感じる。
 うおおおおおおおおお!
 私は叫びながら、夜のまちを駆け抜けた。



お題はお題配布サイト「腹を空かせた夢喰い」様からお借りしています。

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