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出版物が全盛期だった時代①

24歳まで新宿三丁目のBARで働いていた。

ホステス、ソープ、キャバクラの子達が良く来ていた。
店舗はホストとかではなく、たまたま新宿でビルの6階にあって
客がそれほど来ていない穴場のBARだったからだろうか。

彼女達と仲良くなり、彼女達が仕事で相手をする男性客を
店が終わってから、同伴のように連れてきてくれた。
そんな彼女達もいまでは50歳以上で、
孫がいそうな年齢になっている。

店を深夜に閉めて、そこから歌舞伎町で飲んで騒ぐ。
朝に帰ってきて眠る、だけの生活…。

そんな事ばかりをして、これからどうなるんだろう?

25歳である人の紹介で中堅出版社に入る事ができた。
当時は雑誌がメインで、書籍は殆ど触る事がなかった。
雑誌も返本率が20%を超えると雷が堕ちた。
20%返本くらいでも十分に発行部数も倍増した。
部数にもよるが、一冊の編集費も500万以上あったかもしれない。

1年後、ある雑誌の編集長になった。
これは腕を買われてとか、そういう物ではなく、
先代編集長から低部数雑誌を押し付けられただけというのは分かっていた。

一年後に編集長になり、気が大きくなった私は、
月1冊200万位の編集費の中で、撮影費を1本増やそうと、
250万位まで使ったいた。
今では会議で色々と言われるんだろうが、
当時は社長室に呼び出され、
決まった編集費でやれと言われた位だった。
やはりバブル期だったからか、
お金の事はあまり言われた試しがない

当時はワープロを使い始めた人達がいるくらいで
まだまだ原稿用紙にペンという時代だった。
丁度その頃に出ていたのが、Mac
いまではクソのようなスペックではあるが、それでも価格は高い。

Mac Performa 630

HD DISKも160MB。160GBではなく160MBだ。
当時はDTPという言葉があったかどうか分からないが
aldus PageMaker,photoshop,Illustlatorを使い
いわゆるDTPを始めてみた。
印刷も組版をDTPで行うという時代ではなかったので、
イラレでロゴ作成などで入校していた時代だった。

デザイナーも紙とペンで作成し、
イラレで表紙組版を仕上げられる時代は来るのかと思ったいた。

その頃に、編集者を辞めてデザイナーになると決めた。

特にソフトウェアは自分で触って覚えていたので、
教えて貰う事はなく、全て自己流だった。

同じ会社の先輩から編集プロダクションをするという事で
出版社を辞めて、そのプロダクションに移った。
編集者とデザイナー兼務という事で、
月刊マンガ2冊、雑誌2冊は1人で抱えていたと思う。
補助するスタッフもいなく、1人でやっていた。
デザイナーとしてレイアウトし、編集者としてマンガ家やライターさんと
打ち合わせをして切り盛りしていた。

その時の私の売り上げが800万位だっただろうか。
社員が10人ほどで年間売り上げが2億5千万くらいになっていたはずだ。


出版物が全盛期だった時代②へ続きます





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