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闘いであると後で分かるのだ。

 自分の事をするのは楽しいか?苦しいか?
 楽しみに思うことをするのは楽しい。気に入った靴を買うとか、推しのバンドを聴きにいくとか、お気に入りの場所を散歩するとか。
 ところが、自分を支援するためにすることは妙に負荷がかかってきて、心のエネルギーを消費して、疲れが来る。
 自分のより良い未来を保障するためにする正当な手続きなのに、なぜ疲れるのか。自分のために自分が行動するのに、誰かに遠慮しているのか?
 公的な手続きに出向いて歩きながら、そんな自問自答をしていた。そして気がついた。
 ああ、これは闘いなんだと。
 人知れず、人混みをひたひた歩いて、私は目的の窓口へ向かう。人生の中で何度もすることはないだろうという手続きをするために。
 その窓口は、社会制度で整えられた手続きのためにあるのだから、私が特殊というわけではない。
 しかし、正直、面倒いのだ。手間がかかるのだ。私はそれを手続きしたいと表明しなければならない。そのために書類を集め、記入する。提出物が必要十分に揃ったかを確認される。窓口の担当者は丁寧に処理してくれた。淡々と進行するのだ。そこは、毎日そういう手続きを受け付けている場所なのだ。
 しかし、社会制度が整っていても、自分から動かなければ、何も変わらない。行動あるのみなのだ。一生に何回もすることではないが、だからといって、きょうは記念日とか言って、はしゃぐことでもない。
 自分を支援するために、自分が淡々と過程を進んでいくだけなのだ。
 しかし、面倒い。この国の社会制度は確かに改善され、発展している。だから、私はこの手続きをすることができる。だが、制度の歪みを是正するために改正されて、社会に浸透して
定着しても、根幹の制度は変わっていない。そういうのは、とにかく手数が嵩んで、面倒い。私は面倒い。慣れている担当窓口だって、面倒いと思う。結果、社会全体に"面倒い"が蔓延している。
 政治を論評するのも面倒い。ひたひたと歩いて、自分を支援する手続きに、淡々と取り組むのみである。
 1時間ぐらいの所要時間であったにも関わらず、疲れた。
 これは闘いだ。
 私だけでは無いのだ。
 この国の人々は、人知れず、社会制度の手続きに、ひたひた淡々と闘っているのだ。そんな公的な窓口が幾つも林立しているではないか。
 

きょうの検索ワード "闘う" "女性"
その結果→ 「闘う女」小手鞠るい


http://www.kadokawaharuki.co.jp/book/detail/detail.php?no=5384

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