人生はビバップ

日頃、悩みが尽きない。あっちいっちゃジタバタして失敗。こっちいっちゃジタバタして失敗。やる気をエロ本と一緒の位置に隠しておいたけど、いつのまにかエロ本だけになっていた。何一つうまくいかないとずっと思っている。

何が僕をこう悩ませるのか、どうやったらこのモヤモヤを解消できるか、皆目見当がつかない。いや、見当がつきすぎているから、目を向けたくない。みたくないものから必死に目を逸らして、ぬるい地獄で2、3ヶ月半身浴をしてる。

焦ることばかりが増えた。出来ないことをできるようにしたい気持ちが減った。そのせいでまたまた焦る。

ゆっくり何かと向き合うことができなくなった。むやみやたらに他人を消費することばかりが増えた。

コンナハズジャナイノニィ!、って笑ってたけどなんだか笑えなくなってしまった。
心が全然健康ではない。病む病まない、止める止めないの話でこれを解決しようとあらゆることを諦めて先延ばしにしていたら、僕の心に建っていたあらゆる感受性がナリを潜めてしまった。

いけない。このままじゃいけない。ただただ焦ることだけが増える。今はただ、死ぬか死なないかの議論に落ちていかないように、踏ん張っているだけなのだろう。ゆっくり、一コマずつ時間のフィルムをめくって、この映像が終わることすら待ち苦しい。後には、あり得ない展開が待っているのかもしれない。おもしろい、好きになれるキャラクターが出てくるのかもしれない。ただ、それを待つにはこの幕間は長すぎるのだ。

可能性と結果、物語の意味、立ち位置などを求めすぎる僕が災いしたのだろうか。あらゆる物語に憧れた自分が悪いと思う。愚か者が映画や小説などを見るもんじゃない。つくづくそう思った。

とまあ一通りグズグズしたところで、久しぶりにセロニアス・モンクの曲を聞いた。Solo Monkというアルバムは、全てがピアノ・ソロで構成されている。この人のピアノは、今の自分には普通のジャズピアノの響きとは全く違って聞こえた。

まず、最初の音がコツリとなると、次の音を前の音が探すように一つ一つ追従する。そして、曲が進むにつれ、「あれ?この音は違うんじゃないか?」という音がフレーズの中盤から点在してくる。しかし、フレーズの終盤にかけてその違和感を見たことのない秩序にまとめ上げて、果てしなく独創的なフレーズを創出する。

いかにも、僕に必要なものが詰まっているような気がした。まず一音、ピアノをコツリとして、間違ってもいいから次の音を続々と探して、最終的に秩序をもたらせれば良い。アドリブとは、ビバップとはそういうことである。

まず最初の音を選ぶにも、『美』のことが最高だと思っている節がある。『死』を選ぶと縁起が悪いから嫌だとも思っている。美から始まって美で終わるようなもの、その結果のみを求めてしまうからいろんなものを諦めざるを得ない。

ただ、『死』から始まっても、『美』で終わることができれば、それは最高なのではないだろうか。

モンクは、ビバップを極限まで分解して、フレーズらしいフレーズを排すことによってアドリブから出たフレーズを新たなる秩序で包み込んだ。そこにどんな意味があるのか。

僕の都合良いように解釈すると、どの音から始まったって、全ては秩序と次の音を求め続ける探究心なのだろう。そう思うことて、僕はとりあえず『シ』の音を鳴らし始めることにする。人生に結果や目的や意味を求めて、というよりは、次の音を探していくためだけに。


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