最近は皆がみんな、美しいけどさ

最近は美しい人が多い。アイドル戦国時代が終わり、メンズを含めた地下アイドルが飽和していることから始まって、モデルやコンセプトカフェもだいぶ多くなってきて、その中も美しい女の子や男の子ばかりである。友達もすぐに即席でそういう商売に成立しそうな人ばかりである。

そういう商売が恥ずかしいものではなくなったということもある。ある種のステータスのようにもなっているし、それに憧れて美意識を向上させていると思う。とても上っ面が美しい社会になったものだと思う。僕が設けた「可愛い」「かっこいい」のハードルをぴょんぴょんと越えられてしまって、逆に僕が誰にでもそんなことを言うような男だと嫌がられる事がある。僕は美しいものを美しいと正当に評価したいだけなのに!

なぜみんな美しくなっていくのか。それが、文字通り「努力が目に見えて分かる」と言うことにつながっていくだろう。

SNSの世界的な流行によって、人類総露出狂社会になったところで「見た目」の研鑽が、社会に出る(SNSを駆使する)時のイニシエーションになってしまった。若者の力が、そういう「見た目」の激しさの磨きに青春の全てを注ぐようになっていく。社会に青春の意向を反強制的に決められてしまうことは悲しいことだけど、何にも打ち込まないよりはずっとずっとマシだ。その姿勢と完成形が、何より美しければ。

とは終われないのだ。僕は、若者の自殺者が増えていることに自然と目が向く。あまりに見た目に「全勢力、であえええい!」を行ってしまったから、どのように生きるか、という事が自然と決まってしまう。

この間の「ザ・ノンフィクション」を見た。それは高校を中退した球児たちが、社会人リーグからプロ野球入りを目指していく、というものだ。どの高校球児たちも、野球に青春の全て、あるいはそれまでの人生の全てを注ぎ込む。しかしながら、まずメンバーに入ることから始まり、試合の勝ち負けもある。ドラフト会議で選ばれる選手になる、ということまで、全て勝ち負けがものをいう。高校で花を咲かせなかったり、球団に入れなかった、それでも諦めきれない球児たちは、大学リーグや社会人チームに進み、プロ野球選手になるために泥水を啜るような戦いがまた始まる。そういう夢だからだ。夢に向かう姿勢があるからその様が美しい。

この人類総露出狂社会によって、その勝ち負けが至る所にちらばっていってしまったことと思う。それも、絵画や音楽、映画や演劇を見て分かるよう、全く正解の見つかるはずもない「美しさ」という個々人による尺度による。

努力というものは全て、どれに向くものにしても、心を引き摺り回す行為だ。僕の持論で、自意識の目覚めた時から、人生は総合格闘技なのだと言う。心技体の全てのバロメータの向上を目指し、自らのための幸福の発見ために自意識を目覚めさせるのだと。

高校球児には、夢が心を支える原動力である。僕だってそうだ。映画をやりたいと言う意思がなかったならば、今、「この状況」に狂い出しそうな程の不安でもって襲われてしまう。夢、それだけではなく自分の意思によって心と見つめあってきて、なんとか正気を保っていられるまでにきた。

技術と見てくれは全然良くないけれど、日々を一生懸命に生きるだけの心は持っていると思う。たまに崩れても、次幸せになれた時に抜群に甘受できるから、とても良い人生だと自分で思う。僕は僕だけでも十分幸せだ。

心技体、どれをまず磨くかで一番残酷なものが体なのではないか。いくら他人に認められる美しさを手に入れようと努力しても、その千差万別のものを追いかけては、一般人には圧倒的な勝ちに打ちひしがれるしかないのである。その圧倒的な勝ちに面従腹背(そうではない、と言っても現実がそう)しながら、ただ苦労するだけの人生だ。美醜とは、なんと残酷な尺度で人を傷つけるのか。

それの発展途上ながら頭ひとつ抜けた存在である地下アイドルにしてみれば、二億番煎じほどゴミカスのような言葉をつらつらと並べては、面従腹背信徒どもにヘコヘコいいねをもらう。誰も本気でお前のことなんか愛していないのに。その先で誰もが細っこい貧弱な心に、美醜の研鑽と言う苦労を背負って、えっちらおっちら歩いていっても幸せに辿り着きやしないのに。

これを残酷と言わずしてなんと言うか。人類総露出狂社会は、単なる人類総不幸社会なのでは

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