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【PODCAST書き起こし】梅山いつきさん(近畿大学・准教授)に「運動」としての演劇をされている、佐藤信さんについて聞いてみた!(全5回)その2

【山下】佐藤信さんって、実際会うとどんな人なんですか? この前の『シアターアーツ』か何かに載っていたやつを読むと、凄く厳しいことを言う人って……。

【梅山】厳しいですね……、それは……。

【山下】それは何をもって厳しくなるのかな? 

【梅山】誰に対してもじゃないと思うんですけれど、私の場合は……。

【山下】梅山さんは教え子だから……。

【梅山】そうですね。師匠と弟子というか、そういう関係なので……。

【山下】でも、後半は愛に満ちている厳しいお言葉があったけど……、「こうやって梅山さんも育ってきて、次世代を継ぐ者が……」って書いてあったけれど。

【梅山】あれは「最後にちょっと言っておかなアカンな」みたいなことで言ったんだと思います。でも、凄く愛情深い方っていうか……。

【山下】最終的にこの本を見せたときに「ありがとう」っておっしゃっていたじゃないですか。それは凄い師弟愛を感じましたよ。

【梅山】でも、ちょっと信(まこと)さんも変わっているっていうか独自なところというか、私は学芸大で出会った人間ですけど、そういう人間はごくごく僅かで、どちらかというとスタッフさんとか出演者の方とかそういった方たちで信さんといろいろお仕事をされてきたり、教わったりっていう方がたくさんいるわけですよね。

【山下】それは照明さんとか美術さんとか?

【梅山】そうですね。ただ、そういう様々な後続の世代とか後輩とか教え子っていうのと、いわゆる”つるむ”ということを好まない人なんですよね。言い方がちょっとあれですけれど、そういう自分の一派みたいなものをいつも引き連れて飲みに行くとか、そういうようなことはどちらかというと嫌いっていう。

【山下】割と閉じられた……。

【梅山】そういうのがあまりお好きではないっていう……。そういう関わり方を、どんなに密に……いつも同じスタッフさんと作品作りをやっておられますけど、そういった方ともベタッとした関係にしない。意識的に。

【山下】ある距離があるんですかね? おもしろいですね。それは以前からずっとそうなんですか?

【梅山】おそらくそうなんじゃないかなと思いますね。ただ、技術だったら技術をめぐることでのやりとりとか、私だったら演劇学だとかを接点として、凄く濃密な話というはするんでしょう。いろんな話をしてくれますし、学生時代から卒業した後も忙しいのによく時間を作ってくれて、ご飯に一緒に行ったりとかお茶をしたり、そこでいろんな話をたくさん聞かせてくれているので、そういう濃密さっていうのはおそらく1人1人と積み重ねてこられているので、凄く厳しいことは厳しいんですけど、みんな大好きなんですよね。なので、今78歳で、喜寿のお祝いの前年にプレ喜寿祝いというのを信さんに、長年黒テントのときとか、あとは事務所を昔やっておられたので、その頃に一緒にお仕事をされていた何名かの方が有志で企画されて、76歳の8月のお誕生日のときにそういう古くからの、信さんにいろいろ教わった……「Mの会」っていって……。

【山下】MはまことのM?

【梅山】はい。厳しくも愛情たっぷりに育てられた……。

【山下】SMのMでもあるのかな? 

【梅山】でも、そうするとSだと思うんですけれど……。あ、そうか、でも佐藤だからSですね。

【山下】Mの集まりだから、みんな「私たちMです」って。

【梅山】そうですね。でもそういう厳しく育てられた者たちの集まりみたいなことも開催されるくらい慕われている人ですね。

【山下】それは逆になぜ厳しいかというと、相手に愛情がちゃんとしていて、ちゃんと向き合おうとしているだけなんじゃないかな? ご飯を食べに行っても「今日は暑いね」とかの話ではなくて、ちゃんと対話をして、一緒に価値を高めてくれるようなことをやり続けたい人なんじゃないかな?

【梅山】そうですね。だからいろんな方とお付き合いをしていると……、時には必要ですけれどそういう場になると愚痴っちゃうとか、私自身もだんだん年をとると気を付けなくちゃなと思うのが、学生とか自分より年下の人と一緒になったときについつい愚痴ってしまうとか……、そういう先生方とか……。

【山下】佐藤さんはそれはやらない?

【梅山】やらないですね。そういうような付き合い方はしたくないって思っておられるんじゃないかと。

【山下】高潔な方ですね。

【梅山】だからそういうところも含めてちょっと厳しいなっていうふうには思いますけど。

【山下】自分が割と厳しいと感じて離れちゃう人もいるかもしれないけど、でもちゃんと向き合っていくと、やっぱりそれは凄く理解されてお互いに高め合えることがわかるので、そういう人たちが「Mの会」に集まってきているんじゃないですか?

【梅山】そうですね。みんなに「おめでとうございます」って言われて凄く照れている感じがおもしろかったですけど。

【山下】本当に演劇界で貴重な人材だと思いますね。僕は昔の佐藤さんを知らないので教えて欲しいんですけど、最初自由劇場から演劇センターで、そのあとに黒テント。凄くみなさんがお書きになっている『喜劇昭和の世界・三部作』っていうのは、何を読んでも出てきますけれど、これは佐藤信さんの仕事として画期的なんですか?

【梅山】書く時期で、作品の傾向が少しずつ変わっていくんです。ですから、初期の自由劇場のころの作品も凄く魅力的なんですね。『あたしのビートルズ』だとか。作品のボリュームとしては短いながらも凄く練り上げられた作品を、『おんなごろしあぶらの地獄』とかを多く発表されていまして、信さんの特徴が唐さんともそういうところが似ているんですけれど、○○編・○○編っていって、『鼠小僧次郎吉』とかを連作として発表していくんですね。

【山下】これはじゃあ、『おんなごろし』と『鼠小僧次郎吉』はなんか繋がっているっていうこと?

【梅山】『おんなごろし』は1作で終わるんですけれど……。

【山下】『鼠小僧次郎吉』が、次の作品が『浮世混浴鼠小僧次郎吉』『二の替り』とかって……。

【梅山】はい。『花かるた』とかいろいろ副題とか二の替り・三の替りっていうふうにタイトルを少しずつ変えながら、作品も変えていくんですけれど。

【山下】『鼠小僧次郎吉』もずっとやっていますね。

【梅山】そういうふうに1回発表をするんですけれど、それにまた手を加えて変えながら繰り返し繰り返し練り上げていくっていうのが、60年代末から70年代初頭にかけて『鼠小僧次郎吉』シリーズ。

【山下】この頃、佐藤さんはまだ20代なんですね。

【梅山】そうですね。

【山下】凄いですね。

【梅山】今回書籍の巻末に上演年表っていうかたちで載せましたけれど、作りながらちょっと異様だなっていう……。

【山下】どういう意味ですか?

【梅山】仕事量が、ちょっと多すぎますね。

【山下】普通、年に1本とか2本とかじゃないですか?

【梅山】まだ20代は良くてですね、30代・40代になると……。

【山下】他の演出とかもやってらっしゃるんでしょうか?

【梅山】今度は劇場とか、海外との国際交流の事業とかが入ってきて、おそろしい状態になっていくんですね。 

【山下】本当ですね、もの凄い……。もう5~6本やっているのは……。

【梅山】毎月幕が開く。

【山下】本当だ。これ毎月のやつもある。37歳のときとか凄いですよ、これ。

【梅山】ちょっとおそろしいっていう……。

【山下】ほぼ毎月やっていますよ。

【梅山】ちょっとおそろしいっていう状況が……。

【山下】ほぼ毎月やっていますよ。30代はちょっと寝ていないんじゃないですか? っていうぐらいの感じなんだけれど。凄いですね。これはもの凄くたくさんやっていた頃と、この『喜劇昭和の世界・三部作』の時代は同じぐらいの時代なんですか?

【梅山】同じですね。それも凄いことなんですけれど、そのオペラの演出っていうのは、ある意味それを仕事にしてギャランティが入ってくる。黒テントの場合はむしろ自分たちで持ち出さなきゃいけないじゃないですか、だからそれで演出家として……。これも信さんはよく言っているんですけれど、幸いなことに20代で自由劇場を立ち上げたときから自分の周りには、いわゆるプロの製作者だとか劇場について詳しい少し年上のプロの人たちがいて、その人たちのおかげでかなり早いときから演出とか劇作を書くだけで食べていけたっていうことなんですね。

【山下】それはでも佐藤さんの魅力かもしれないし、ありがたいことですね。

【梅山】なのでお仕事としてオペラの演出っていうものも、一方でやりながら黒テントで精力的に書き続けていくっていう状態が70年代はずっと続いていくので、『喜劇昭和の世界・三部作』を書いているときもそういうような……。

【山下】その時期と重なっているんですね。これは私の仮説なんですけれど、いろんな演劇を40年くらいしかまだ見ていないけれど、でもある作家さんがもの凄くたくさん書いている時期ってあるんです。そのときにやっぱり凄くいいものが生まれている気がするんですけれど、どうですか? いろんな劇団があって、例えば今だと劇団チョコレートケーキ。この前来てくれたんですけれど、今もの凄くたくさん……、来年も再演を4つやって、もう1つ新作をやるとかで、古川さんも年に6本以上書いているとかで、ドラマも書いている。そういう時期に書くものって、忙しすぎるんだけれど、最後まで残るようなものが生まれてきているんじゃないかな? っていうふうに……。それはKERAさんとかを初めとしていろんな人にそう感じているんですけれど、梅山さんはいかがですか?

【梅山】それは信さんだけじゃなくて、作家さん全般についてですか?

【山下】忙しい人に僕らはよく言われるんだけれど、プロデューサーでディレクターを頼むときに「忙しいやつに頼め」って。「忙しいやつは売れているから、そのときはもの凄い才能を発揮する」って。制作側は面倒くさい。スケジュールが取れない、打ち合わせもできない。昔だと打ち合せが深夜の23時とかにスタジオに行って監督と打ち合わせるとか……。でもその監督に頼むともの凄くあがりがよくなるっていうのがあって、それは演劇の世界でもあるのかな? ってそう思ったんですね。

【梅山】あるんでしょうね。ただ、その作家さんによっての作風のスタイルによっては、その忙しさがどういうふうに質として高められていっているのか。また別で、このあいだ別役実さんの展示を演劇博物館でやって、そのときに伺った話でおもしろかったのが、平田オリザさんと岡室美奈子先生と3人でオンラインでの対談っていうかたちをやって、近日中に演博のほうで配信されるんですけれど。

【山下】じゃあ平田さんは豊岡から参加されたんですね。

【梅山】そうですね。そのとき確か平田さんがおっしゃっていた話で、別役さんって途中から早稲田小劇場を離れられて、文学座とかに書き下ろしをし始めるようになってくると、職業作家……、職業芸術家ですね、別役さんの言い方をすると、職業芸術家っていうふうに意識的に発言をされて、量産体制に入っていくんですよね。 それって量産体制って言い方をすると、金太郎飴みたいな感じで切っても切っても同じというような、ちょっと良くないイメージをもたれるかもしれないんですけれど、平田さんがおっしゃっていたのは「型をそこで発見して作っていったんじゃないのか?」と。自分自身の劇作のスタイルとか型っていうようなものを……。

【山下】打席が多いといろんなものを試せるじゃないですか。だから、もしかしたらたくさん仕事をしているから失敗作もたくさんあるかもしれない。でも、やっぱり打席が多いと「すげーな」っていうものも出てくるっていうことなのかもしれないね。そういうことかもしれないな。それは思いました。

【梅山】なので、別役さんの場合はご自身の型っていうものをたくさんお仕事をこなす中で確実なものに、より強固なものにされていくっていう積み重ね方をされていて、信さんの場合はどちらかというとそういうスタイルっていうものはあんまりこれっていうふうに作りたくない。

【山下】変化していく人なのかな?

【梅山】なので劇作家としての文体っていうのも意識的にかなり変えるんですね。『喜劇昭和の世界・三部作』の頃なんかはそれ以前とは特にそういった違いっていうものはないんですけど、そのあとにアジア演劇っていうふうにいった以降はかなりガラガラと、その都度その都度文体を変えていくっていうことをされていくので、そういうところでやはり1作・1作に掛ける時間というのが凄くかかってくるっていう作家なんですよね。なので別役さんと比較すると好対照だと思うんですけれど、別役さんは型ができてしまったらある種その型でたくさん量産体制をとれるわけですけど、信さんの場合は自分自身の文体を変えていきたい、壊していきたいっていうのが常にあるので、1作品っていうのが出来上がるまで時間がかかるし、それができても連作っていうかたちでそれ自体を自己批評していかざるを得ないっていう……。

【山下】そういう方なんですね。「芸術家は破壊と創造の繰り返し」とよく言いますけど、佐藤さんはそれをずっとやっていて。でも別役さんももしかしたら、型の中で破壊と創造を繰り返しておられたのかもしれない。ただ、伝統芸能とかも型はありますけど、新しいことが生まれてきているということはそういったやり方と、やり方が違うだけなのかもしれないなっていう気がしました。本当に僕がずっと思っていて「忙しい人に頼め、たくさん量産しているときにはすげぇ良いものを生む」という仮説のお話でした。『風立ちぬ』っていう映画の中で宮崎駿が「人の才能が輝いているのは10年だ」っていうのをね……。凄く覚えていて。多分、宮崎さん自身もそれは感じているところがあるんじゃないのかなと思う。その10年に向かってどういうふうに寄り添って……。もちろんその10年のところに行くまでと、そのあとっていうのも凄く大切だと思うんだけど、人間ってそういうところが……、もしかしたら創作者っていうのはあるのかな? っていうのをずっと創作の人たちと、僕も40年間ずっと連れ添ってきているので凄く感じるんですね。
佐藤さんも多分同じかもしれないなって。そのときに生まれた『喜劇昭和の世界・三部作』ってやつなんですけれど、これは社会的に凄く評判が出て「これは凄い」っていう話になったんですか? 僕は全然見ていないんですが。

【梅山】そうですね、黒テント自体が1番お客さんを獲得していく時期でもあるんです。

【山下】ということは70年代から80年代にかけて?

【梅山】70年代の初頭から半ばですね。

【山下】そうか、だから僕はまだ学生だったから見れていないんですよ。高校生とかで住まいが大阪だったし。

【梅山】その前に演劇センターとして68年に活動を始めて、70年に初めて黒テントの全国公演をするんですけれど、そこで2派にわかれてしまって、串田和美(かずよし)さんとか吉田日出子さんは元の六本木の地下にある、自由劇場のほうに戻ってオンシアター自由劇場としてやっていく。で、信さんとか清水鉱治さんとか新井純さんだとかっていうようなメンバーは黒テントでやっていくっていうことで、テント派っていうことで2つに分かれるんです。

【山下】そのときはまだ黒テントではなかった?

【梅山】そのあとに68/71黒色(ろくはちなないちこくしょく)テントっていうふうに名前をかえまして……。

【山下】そこは黒テントって呼んでも大丈夫なんですか?

【梅山】はい。黒テントっていうのはある意味、状況劇場を紅(あか)テントって呼ぶようなもので……。

【山下】天幕自体は黒いですもんね。

【梅山】劇団黒テントってなるのはそれよりもずっとあと。

【山下】名前はあとなんだ。佐藤さんはテント公演に行かれたと。
この『喜劇昭和の世界・三部作』はテントの上演なんですよね?

【梅山】そうですね、テントの上演で、清水鉱治さんがいたり、結成当時から一緒にやっているような俳優さんたちがもつ魅力っていうようなものも相まって、作品の面白さっていうことと、出演者の魅力っていうことで、爆発的な人気っていうのを博すんです。

【山下】これは1本目が『阿部定の犬』ってやつですか?

【梅山】そうですね。

【山下】2本目が……。

【梅山】『キネマと怪人』ですね。

【山下】3本目が……?

【梅山】『ブランキー殺し』これも何バージョンか……。

【山下】何パターンかありますね。上海版とかもあるんですね。これは梅山さんは映像かなんかでご覧になったんですか?

【梅山】阿部定も、この三部作は全部映像として記録が。あまり状態は良くないですし撮れた日のものなので、それがベストっていうことでは……、そこまではわからないですけれど、一応見ることはできますね。

【山下】どんな感じでした?ご覧になられて。

【梅山】三部作の中でも、再演されることが多いのは『阿部定の犬』なんですね。

【山下】阿部定事件の阿部定ね。

【梅山】作品として評価がさらに高いのは『ブランキー殺し』だったりするんですけれど、意外と『キネマと怪人』もおもしろい……。

【山下】『キネマと怪人』って映画の話ですか?

【梅山】はい。満映の話なんですけれど……。

【山下】満州のね。満映は日本の映画人が皆行って、凄くお金を使って作ったからね、いい作品がいっぱい出たらしいですね。

【梅山】映像で見て、キネマがおもしろかったのは演出がレビュー的な演出がとられていて、信さん実はレビューの演出家になりたかった方なんですよね。

【山下】レビューっていうのは……。

【梅山】SKD(松竹歌劇団)とか。

【山下】松竹SKDか。ラインダンスとか?

【梅山】そうです。ああいうのをやりたくて。

【山下】宝塚とかも?

【梅山】そうです。宝塚の演出部とか。俳優座にも演出コースっていうのが当初あったので……。

【山下】それでいこうって入られたんですね。

【梅山】それていこうと思ったんですけれど、自分の年から無くなっちゃったのでっていうことで。

【山下】無くなったんですか。凄いショックですね。

【梅山】ですけど、それくらいレビューでやっていきたいっていう願いがあって、そういうのがキネマには込められたっていう。

【山下】ドーンと爆発した。なるほど。

【梅山】だから凄く華やかで、にぎやかで凄く楽しい作品。

【山下】じゃあこの頃はみんな「黒テント行った?」っていうのが割と若い人が多かったんですかね?

【梅山】そうみたいですね。

【山下】そういう時代だったんだろうな。

【梅山】あとは今でも人気のある劇団だと「よくわからなくても人気だから行く・友達にくっついていって行く」とかっていうようなかたちで、その当時は「作品についてはなんだかよくわからなかったけど、見ていたわよ」って話もよく聞きますね。

【山下】僕が大学のとき……、大阪に唐さんたちが来て、紅テントをやってくれたんですけれど、もう何が何だかわからなかった。でも一番印象に残ったのは「なんだこれは!」っていう感覚だけが残るんですよ。それでいいじゃないですか。やっぱりテントお芝居って「なんだこれは!」っていう感じのような気がする。

【梅山】そうですね。みなさんそう言いますね。

【山下】まずそこから始まりますよね、絶対。

【梅山】自分自身もそうですもんね。「なんだこれは!」っていう。

【山下】梅山さんは「なんだこれは」と最初に思ったのは何ですか?

【梅山】私、2000年に上京して、黒テントもまだやっていたんですけれど、1番最初は東京タワーのすぐ近くのところのプールって覚えていますか? プールの水を抜いた状態のところで、松本大洋の『鉄コン筋クリート』をやったのが初めてで。

【山下】そんなのがあったんだ。

【梅山】次に『三文オペラ』黒テント版をお寺でやったんですよね。

【山下】それはどこですか?

【梅山】ええと、どこでしたっけ? どこのお寺だったか……。

【山下】『三文オペラ』ってクルト・ヴァイルのあの……。

【梅山】そうです。ブレヒトのやつで、黒テント版っていうのがあるんですけれど……。

【山下】あった。これだ。1990年かな? 違う?

【梅山】90年版ではなくてですね、2000年以降で……。

【山下】2000年か。これもでもよくまとめましたね。

【梅山】実は間違いもいろいろあって。

【山下】じゃあ今度第二版の頃、修正を……。

【梅山】はい。第二版を出したいところで、そして直したいところなんですけどね。

【山下】そうか、2000年に上京されたから、それ以降にご覧になったんですよね、多分。

【梅山】それ以降だと……。

【山下】でも、学生時代に見ている、と。

【梅山】そうですね。だから黒テントのほうは「なんだこれ、よくわからない」っていうようなことは特になくって、どちらかというと、紅テントのほうが……。

【山下】ですよね、僕はそれでした。

【梅山】その当時、今はもうみんな離れちゃいましたけど、若松さんとか当時の若手世代が頑張り始めたような時だったんですよね。

【山下】独特なキャラクターの人たちがたくさん。

【梅山】なのでそういうところも含めてパワーに圧倒されたっていうとこですかね。だから黒テントはテントっていうよりは練馬にその当時あった作業場によく……、他のゼミの人たちと一緒に行って。

【山下】伺いました、この前。で、この三部作が話題になって梅山さんも「なんだこれは」ってうのでやっていったんですけど、さっきの話に戻すと三部作のあと、アジア演劇でPETA(ピーイーティーエー)って……。

【梅山】PETA(ペタ)ですね。

【山下】PETAとの出会いからATF・アジア演劇会議の開催へということなんですけれど、やっぱり佐藤さんはここで少し変化が起こるんでしょうか?

【梅山】そうですね。きっかけは信さんっていうよりは、黒テントのメンバーの1人の服部さんが窓口というか……になってPETAっていう……。

【山下】なんですか?PETAって。

【梅山】PETAっていうのはフィリピンを拠点にしている演劇の集団なんですけれど、フィリピンっていうのも、様々な戦争のなかで自分たち自身の文化とか芸能っていうものが破壊されてきているっていう歴史と、あとは貧困の問題とか様々な社会問題っていうものを演劇を通じて一緒に考えていくっていうことをやっている集団なんですよね。ヨーロッパ型の演劇っていうものではなくて、フィリピンの民衆演劇っていうものをもう一度掘り起こしていこう……。

【山下】それがおもしろいですね。僕、そこは凄く興味があるんですよ。

【梅山】そういう団体がいるよっていうことを信さんたち黒テントが服部さんだとかを介して知って「あっ、これは問題意識を共有できるんじゃないか」っていうことで、さっそくフィリピンのほうに行くんですよね。その当時は斎藤晴彦さんとか山元清多(きよかず)さんとか他に信さん以外にもメンバーっていたので。

【山下】それは会いに行ったってこと?

【梅山】そうですね。桐谷夏子さんとかと行って、ワークショップに参加するんです。それまで70年代末とか80年代初頭って、まだ今のようにワークショップっていうやり方・作り方とか言葉自体が全然定着していなかった時期にいち早く行って、作り方っていうものを獲得していくんですよね。PETAを通して。

【山下】作り方っていうのは演劇のワークショップの作り方?

【梅山】そうですね。それまでは劇作家がいて、その書いたものを立ち上げていくっていう作り方から、稽古場でグループ作業で身体を中心としながら何かスクリプトがあって、それをなぞるのではなくて、その場で出てきた問題とか言葉っていうのを立体化していくっていうような作り方にシフトしていくんですね。

【山下】これは佐藤さんの演劇の演出のスタイルもそういうふうに変わっていったっていうことですか?

【梅山】そうですね。PETAとの交流を挟んでできたのが『西遊記』っていう作品になるんです。だから演出家として、『西遊記』の時も最終的な総合演出みたいなことはやっているようなんですけど、各場面ごと……、1つ1つの場面っていうのは俳優たちが主体となって作っていくって言うようなかたちにするんですね。

【山下】おもしろいですね。なんでしたっけ? エチュードっていうんですか? そういうようなものを積み重ねながらっていうことですか?

【梅山】そうですね、そういうようなものですよね。だからさっきの『喜劇昭和の世界・三部作』の時は清水鉱治さんっていうような、その個人名でパッと人を引き付けるような人がいたのが、それも離れていってしまうっていうのもあって。

【山下】そういうこともあったのか。

【梅山】一方で「集団として俳優全体で作品を作っていきたいんだ」って意思があって、PETAとの出会いを介してそういう『西遊記』みたいなのが生まれてきて、そうするとなかには三部作の時のようなイメージがあると「ああいう魅力がない」っていうことで批判をされたりもしているんですね。

【山下】それは観客からも含めて?

【梅山】観客はどうなのかっていうのはちょっと私もそこまではあれですけど、当時の評論家の劇評なんかを見ると「『喜劇昭和の世界・三部作』のような劇作としての深みとか目を引くような俳優がいない」とか、そういうようなところを「変わってしまった」「力が衰えた」っていうふうに批判するような劇評もあるんですけど、一方でちゃんと黒テントがやろうとしていることをくんでちゃんと評価している批評も僅かですけれどあることはあるんです。

【山下】物が変わるってそういうことですからね。なんかのファンが『あの味が変わった」とかみんな怒ったりするじゃないですか。でもそれは変化だからそれはしょうがない。

【梅山】模索の時期が80年代初頭ですね。

【山下】PETAと出会わなかったらそれが生まれなかったかもしれないんですよね。このアジア演劇会議っていうのは、会議をするんですか? アジアの演劇部で集まってそれを開催されたんですか?

【梅山】そうですね。それを日本でもやろうっていうことで、それは山元清多さんなんかが中心となって準備を重ねてやられたと。ただ私のほうでもまだまだ調べが足りなくてですね、実際運営されて結果どういう交流が生まれたのかってところまでがちょっと今回資料では追えなかったんです。そこにいたるまでのどういう思いでやろうとしているのかっていうようなことは様々な機関紙で記録として残っているんですけれどね。

【山下】アジアの演劇っていうことに最近は日本は注力しているんでしょうか?……、アジア演劇を、国際演劇祭とかで呼んだりしていますけど。
この当時だと凄く珍しかったんじゃないですか?

【梅山】そうですね。

【山下】「国際的な演劇といえば『シェイクスピア』だろう」みたいなのが多分あったと思うんです、70年代だから。そのときに「アジアの演劇を」っていうのを考えて実行されたのが凄いなと思って、その多様性をそういうふうに包摂していく力が……。本当にこの時期にこれをやったことの凄さ。

【梅山】よく信さんご自身がおっしゃるのが、「60年代半ばに自分たちの世代、小劇場第1世代とかアングラ演劇って呼ばれる世代が出てきた。それを今振り返ると「いったい何だったのか?」というと、自分たちの言葉で翻訳するのではなく、自作していくムーブメントだった」っていうことで、そういう意味を込めて自国語演劇って同時の呼び方をしていいるんですよね。

【山下】自国語演劇、おもいしろいですね。

【梅山】それが80年代ぐらいに入ってきて、近隣諸国を見まわしたときに同時期にそういうムーブメントがアジアの近隣諸国で起こっているっていうことを発見していくんです。なので、PETAなんかも同世代にあたる、と。さっき言ったような「自分たち自身の芸能文化っていうものを獲得しなおそう」っていうことをやっている集団たちっていうのが、アジア演劇会議っていう場で集めよう。集まって情報交換をするっていうそういう場なんですよね。ただ、そのあとにはただ単に同世代で同じ問題意識を共有しているっていうだけで終わらないことがあって、それは日本が先の大戦のときに加害者として近隣のアジア諸国に対して様々なそこでの……。

【山下】侵攻していきましたからね。

【梅山】はい。っていうことを無視できないっていうことも同時に改めてというか、黒テントのメンバーたちは直面していくわけなんですよね。

【山下】目の当たりにしますもんね。戦争の記憶がある人もたくさんまだ向こうにいるから。でも80年代の初頭にこれが起きたっていうのは、なんとなく戦後、第2次世界大戦が終わって、そこからアジアの国々って自主独立をして民主化がおきて、それでやっと自分たちで活動ができるようになってきた。それまではいわゆる植民地だったから……、それが抑圧されていたのかもしれないなって今ちょっと思ったんですね。だからこれくらいにならないと、自分たちで……自分で表現ができなかったのかもしれないですね。そういう意味では表現を自国語で自由にできるっていうことはある種の平和の証ですよね。だからオリンピックも平和のためにやっているっていうことですけれど、芸術をもったそういったところがあるんだなって今の話を聞いて、凄く繋がりました。

【梅山】ですからこういうふうにまとめると、すべてうまく交流が進んでいるように見えますけど、いろいろ話を聞いていると実際のところはやっぱりなかなかそこでの歴史認識をめぐってのすれ違いとか、たとえこの時点で終戦から30年とかですかね? 

【山下】そうですね、1945年が終戦ですからね。

【梅山】はい。経っていたとしても、やはり日本や日本人に対しての……。

【山下】複雑な思いがよみがえった。

【梅山】はい。それは沖縄をめぐるアジア演劇少し前にあったこういう地闘争でも黒テントのメンバーが直面したことなんですよね。

【山下】沖縄もね、琉球王国だったものが、日本が行ってある意味侵略をしているのに、戦中から戦後にかけて少し置き去りにしてきた……と言う歴史もありますからね。やっぱり社会と繋がっているんだなっていうことでね、ますます思いを強くしますけれど。

---- 担当: 榎本亜矢 ----
いつもご依頼ありがとうございます。今回は60年代や70年代と昔のお話しでしたが、産まれる前のお話を聞けるのはとても勉強になります。なかなか聞けることも少なくなってきていますのでとても勉強になりました。国際交流のお話など、歴史の背景を考えるととても大変なことだったと思いますし、凄く珍しいことをなさったのだなと思いました。
素敵なご縁をありがとうございました。またどうぞよろしくお願いいたします。

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