考え事#40 フレームと自由①自由の概念
反転授業を用いた個別最適な学びを実践していた時の話。いわゆる、単元内自由進度学習というやり方に乗り出して驚いたことがある。せっかく自由に自分の学びを設計できる環境を準備したにも関わらず、自由に抵抗を感じる生徒が少なく無いように見えたことだ。
今日は、この経験から自由というものについて論じてみたいと思う。
隣の芝は青く、隣の文化は自由だ
現代日本において、不自由に感じるものはなんだろうか。きっと地域によって異なるのではないかと思う。自由と不自由は不思議なことに、いつだってトレードオフの関係にあるのではなかろうか。
日本の〇〇みたいなところは海外みたいに自由にした方が良いよね。
という意見がある一方で、日本には言論の自由があって、〇〇の国よりは良いよね。
みたいな意見も存在する。
人類が自由というものについていつから考え始めたのかは厳密にはわからないが、自由に関する歴史をchatGPTに尋ねてみた。
自由の歴史
僕:自由という概念の歴史を教えて。
GPT
少なくとも古代ギリシャとか古代ローマで既に自由というものが論じられていたということらしい。この辺は過去に俄かに学んだ内容とも合致しているので、これがある程度正しいものとして論を進める。
各時代の記述をみても、自由という概念が"相対的"な概念であることがそれなりに認められそうだ。
自由になると自由が観測できなくなる問題
さて、現代日本に生きる僕らは先人達の努力によって生まれながらにして過去にはあり得なかった自由を手に入れている。
職業選択の自由
言論の自由
経済活動の自由
これらを僕らは普段本当に認識できているだろうか?
案外、怪しいのではなかろうか?
自由とは、皮肉なことに、抑圧されて初めて認知できる類の概念ではないか?
少し長くなりそうなので、続きは次回から数回に分けて書こうと思う。
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