考え事#42 フレームと自由③フレームの分類

ここ2回にわたり、フレームと自由について述べてきた。

今回は自由から一度離れて、フレームについての論を述べてみたい。
尚、一応断っておくが今回のタイトルにある「フレームの分類」はブルームの分類とは異なるし、ブルームの分類を意識してモジったわけでもない。たまたま似た語感になっただけである。

教育=フレーミング

まず初めに結論から述べたい。
なんらかの目的を持った教育という営みにおいて、子供にフレームを課しているのは常に教師や親やその他の大人たちだ。
教育というものは、なんらかの方向に意図的に人の成長を誘導するための手法であることを、大人は常に認識せねばならない。

絶対的フレーム

教育の過程で生じるフレームは相当な数が存在する。その中には、生涯外さなくてよいフレームというものも存在する。

他者の人権を守る という言葉でまとめられるようなフレームだ。
本来的にはこのフレーム自体も絶対的なものではない。何かのきっかけで過去の社会体制に似た環境のようなディストピアを人類が選ぶ未来が来たとすれば、その時はこのフレームですら自己の生存のために外さないといけないかもしれない。もちろん、そんな未来は僕は望まないけれど、それほどにフレームというものは絶対性が無いということを言いたい。

一次的(教育的)フレーム

さて、今回特に言及したいのは、本来であれば不要だが、成長過程に合わせて何らかの目的をもって課すフレームについてだ。

どんな例があるか考えてみたい。

・Twitterで定期的に揉め事になる「掛け算の順序問題」
・高校物理における微分積分を使わない考え方や解法
・「お小遣いを使うときは先に保護者に相談しなさい」などの家庭内ルール
・スポーツ指導における初心者が上達するための動作の固定化
・「PCやスマホは学校では許可があるまでしまっておきなさい」などの校則
・授業中は静かに。発言は挙手してから。というルール
・自宅学習時間は○○時間とりましょう。という受験系の指導

いくらでも例は挙がるだろう。
これらのフレームは、(そもそも必要かどうかという問題も含んでいるとしても)ある成長過程の子供や集団の状況において、子供1人当たりの教育者の人数や、リソースとして用いることができる時間の制約によって発生するフレームだ。多くの大人はこれらをきちんとフレームとして認識しているだろう。

これらの一次的フレームに纏わる問題には2つの点があると考える。

非認知フレーム

1つ目が非認知フレームだ。
ここで述べたい厄介な問題は、「教育者自身の非認知フレーム」である。客観的に考えれば一時的フレームであったとしても、教育者本人にとっては絶対的フレームであると思い込んでしまっている場合や、フレームであることにすら気付いていない場合、これを教育者自身の非認知フレームと呼びたい(ここでは教育者は先生と呼ばれる人も、親・保護者も、その他何かを子供に伝える人全てを指している)。

特に、指導歴や確固たる自信がある教育者ほど、教育者自身の非認知フレームに陥りやすいのではないだろうか。

子供にとっては基本的に全てが非認知フレームである。フレームを外すには人生のどこかのタイミングでメタ認知能力を高めて、過去の自分を相対化する必要がある。フレームの残像は多くの場合こうやって大人になる過程で自力で外していくもの、と認識されているかもしれない。

ただ、自力でアンフレーミングするにしても厄介な場合がある。愛情をもって接してくれた親・保護者や尊敬していた先生がフレーミングをした人物だった場合だ。

自身が信じていた存在が自分に課したフレームを捨てることは、本人にとっては裏切り行為に該当する。どんなに小さな一時的フレームでも、「あの時の教えを破ってしまった」的な良心の呵責や、場合によっては自分への嫌悪感が生じる可能性がある。これが原因で人生が拗れた経験がある人もそれなりの数いるのではなかろうか。

アンフレーミング忘れ

一次的フレームに纏わる問題の2つ目は、アンフレーミング忘れだ。
教育者自身が、これは今の段階だから必要なフレームだと明確に認知できていたとしても、子供の成長と共に過去に課したフレームを忘れてしまった場合、そのフレームは子供のなかにいつまでも残り続けてしまう可能性がある。

子供が自分の環境を離れて次の環境に入ったとき、そこで新たな教育者がそのフレームに気付き、過去にそのフレームが必要だった理由に加え、現在のあなたにはそのフレームは不要であるということを丁寧に伝えてくれればまだマシだ。
しかしながら、例えば子供があなたを非常に信頼している場合、あらたな環境における教育者がそのフレームを雑に扱うと、子供とその教育者は闘争状態に陥ってしまうことがある。こういった状況を僕は部活動の世界で多く観測してきたが、この場合の闘争状態は本来的に不要であり、控えめに言っても非常に勿体ない時間だ。

フレームの影を照らすには

いずれの場合においても、このフレームはどんな条件が満たされたら外してよいものなのかということを踏まえてフレームを課すべきだし、できる限りアンフレーミングの指導まで同一人物が実施すべきなのではなかろうか。

自身が普段教える際に課しているフレームを一度書き出してみて、このフレームは成長段階としていつまで必要なものなのか考えることは大切なことだ。場合によっては子供が自分のもとを離れて進む次の環境の教育者の意見を聞いてみると、非認知フレームの影を照らすことができるかもしれない。

今回で終わろうと思っていたのだが、まだ次回に論は続きそうだ。
次は、アンフレーミングをどう実施するのかという手法の話を書きたい。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?