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考え事#29 自己による自我の浸食について

教員という仕事を通して、特にこの数年間はものすごく自分自身のメタ認知を意識的に行ってきたつもりだ。その中で、自分の行動様式が見えてきたのでそのメモを残しておく。

前回に引き続き、自己と自我の話。
自我は社会や他者からの要請によって形成される(形成せざるを得ない)自分のことで、自己とはそういうモノとは無縁の、一人称の世界における自分だ。

自我の形成過程

恐らく人というのは基本的に、"自我"というものを仕方なく形成する。自己と矛盾する自我を部分的に受け入れ、あきらめる。
例えば、「校則で○○が禁止されています。」
という指導をうけたとしよう。

この指導に対する反応は(僕の接してきた生徒達について)大雑把にまとめれば以下のようになる。
Aわかりましたごめんなさい。(素直に認める)
B私だけじゃなくてみんなやってます。(責任を回避しようとする)
Cそもそもこの校則おかしくないですか?(開き直る)
Dこの校則の意味や真意はなんですか?(理解しようとする)
Eこの校則を変えるにはどんな手続きを踏めば良いですか?(民主主義的に改革しようとする)

あなたはどれに当てはまるだろうか。
または、当てはまらない他の選択肢を持っているだろうか?

僕はこれでいえば、
EまたはF校則を破っているにも関わらず、注意されない方法にはどんなものがあるだろうか?ということを割とよく考える。

自我形成による自己抑制の葛藤

分かりやすい例だったかどうかいまいち疑問だが、書きたい事はつまり、
「自己と相反する自我を要請された場合、自己をどこまで主張するのか」という話だ。

こういった自我形成+自己抑制の仕組みは、工業社会のようなマニュアル人間を大量生産すればよかった時代にはそれなりに有効な策だったのだろう。上からの要請に素直に従い、きちんと納期を守れば自分の生活を保障してもらえる社会構造なので、大多数の人にとっては悪くないシステムだろう。

現在は、この"生活の保障"部分が自我形成+自己抑制という仕組みではかなり怪しい状況になった。だから、きっと先の例でいえば、Eや自分なりのFの選択肢を考える力を身に付けていく方がよいだろう。

民主主義的解決策と、非暴力内部テロ的解決策

旧来の構造によって形成された仕組みを真っ向から変えるのはものすごく時間と労力がかかる。先の話でいえばEの選択肢だ。民主主義的にきちんと手続きに沿って、自己を大切にする方法だ。本来的にはこの形にチャレンジできる場が、大人になる過程で準備されているとものすごく良いのだと思う。

ただ、なかなか民主主義的な正規の方法を取ることが難しい場合もあるように思う。そんな時、Fの選択肢は思いのほか簡単にできる。
”ルールを完璧に守っているように見える状態の自我"を意図的に創り出し、その状態に自己を侵食させていく、という方法だ。この方法を僕は、非暴力内部テロと呼びたい。

自我が仮面のようなものだとすれば、自己は自分の素顔である。
仮面をつけることが気に入らなければ、その仮面の表情を素顔で練習してしまえばいい。

仮面をつけろ!という意見を持った人に対して、
仮面と全く同じ表情の素顔を見せた時、一体何が起こるだろう。

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