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考え事#14 教育はお金じゃない。

僕が教員になった頃、よく職場の先輩が言っていた言葉だ。
どうやら教育はお金じゃないらしい。

この言葉に僕は基本的には賛成だ。

人間が人間らしく豊かな人生を歩むには、それ相応の環境が必要で、その環境下で行われている営みを教育と呼ぶのだと思う。

実際、僕は今、いろんな経験をしてきたおかげで、豊かかどうかはわからないけれど、人間として人間らしい人生を歩んでいると思う。

そんな教育というものが、お金ではない。

と言い切るこの言葉。
確からしく聞こえるし、間違っていないと僕も思う。

でもそれと同時に、狡い言葉だ。


教育はお金じゃない。

じゃあ一体教育とはなんなのか。

その解を、または解を示唆するようなことは何一つこの言葉は言ってくれない。

よくよく考えると世の中には、
こういう言葉がたくさんあるし、
今までなんとなく先輩が言うんだから、と素通りしてきた。この道を極めてきた人が言うのだから、間違い無いだろう。と、みんながなんとなくそこにある確からしそうなものを盲目的に信頼していればそれなりの人生が送れた。

でもちょっと待て。

教育とは?もう一度自分で考えた教育の定義を考えてみる。

人間が人間らしく豊かな人生を歩むには、それ相応の環境が必要で、その環境下で行われている営みを教育と呼ぶのだと思う。

この、自分で考えた定義ですら、最近の社会では根底が揺らいでいる。

人間とはなにか?
人間らしくとはどんな状態か?

人間らしく、も、人間という言葉も、
よくよく考えるとあまりよく意味がわからない。
それはあくまでも遺伝子学的な符号に過ぎないのではないか?
人間という言葉自体にそんな深淵な意味があるのか?トランプのスペードとかダイヤ程度の意味なのではないのか?

ほら。こうやって前提の段階で、見た目が似たようなものを符号化して、平均値として同じように捉うのはこれまでの時代の成功論だ。人口が多ければ平均値にはそれなりの意味があったけど、もうそういう見方はあんまり必要ないと思う。だって、少子化だしね。

個性とか多様性をきちんと考えるということは、
人間とか、大人とか、子供とか、
男とか女とか、
高校生とか先生とか、

そういう顔の見えない平均化された、抽象的な概念とさよならしなければ。

僕は僕であり、別に人間かどうかは、実際よくよく考えると、どうでもいい。
みんなだってそうじゃない?

普段、役割とか立場を気にして過ごさなきゃいけない日々を過ごしていると、いつのまにか僕が僕であることを忘れてしまう。

そうだ。これはまさに、僕は人間であるべきだと感じるような教育を受けてきたからだ。僕に対する教育は大成功だ。そう思う。

冒頭に書いた言葉をもう一度書いて、
この文章は閉じようと思う。

実際、僕は今、いろんな経験をしてきたおかげで、豊かかどうかはわからないけれど人間として人間らしい人生を歩んでいると思う。

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