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考え事#17深い学びとは

ここ最近、いくつかの学校から勤務校に視察に来ていただくことが多くなった。コロナ前はこんな感じだったなぁと思いながら、外との繋がりによって得られる学びに感謝。(視察に行かせていただく機会もありました。関係の皆様、改めましてありがとうございます。)

そんななか、ある問いを受けて、あぁー。と思ったことをメモしておく。


ICTの活用によって深い学びは促進されますか?


という類の質問だった。
うーん、難しいなぁ。深い学びの定義次第だなぁと思いながら、コロナ禍になってからあんまり、”主体的、対話的で深い学び”について考えなくなっている自分に気づいた。

主体的な学びと対話的な学び

反転授業で個別最適化された学びを目指していくと、なんというかこう、主体的で対話的な学びは当然の話になる。コロナ禍になってから授業時間の使い方はほぼ生徒に考えてもらっているのだから、まあ当たり前だと今では思う。(こう思えるまではかなり悶絶しながら悩んだ期間があったし、たくさんの人にお世話になった。)

授業動画を見る生徒、友達と問題について話し合う生徒、疑問点をぶつけてくる生徒。時にはもちろん、寝てしまったり別なことを始める生徒もいる。

ただ、この環境さえ形成できてしまえば、あとは、

どれくらい主体的か?
どれくらい対話的か?

という話になる。その辺りはいつも意識して授業の場に、いる。
まさに、いる。ということに尽きる。

授業とは


授業は生徒が成長する場だと考える。
講義をすればするほど、成長するのは、僕だ。

だから、

学びのオーナーシップは君たちに預けるね。

とひたすら言い続けながら、
少しずつオーナーシップを渡す。

生徒たちも授業という場での自分の動かし方がだんだんわかっていく。

深い学び

ここでようやく深い学びの話になる。

思うに深い学びというのも結局は深さの話になる。
人それぞれどこまで深く学んだことがあるか、その経験には差があるから、一概にどこまで潜れば深いのか、とか簡単には言えない。そもそも、仲の良い友達と話す時でさえ、求めたい深さが異なればその話はそこで終わるか、どちらかが面倒くさいと感じていながらも機械的に頷き続けるだけのつまらない飲み会みたいになる。(付き合わせてしまっている人、ごめんなさい)

どこで深く掘りたいと感じるか、どちらの方向に掘りたいか、はもっと多様だ。

だから、深く掘りたいと思える話題に気付かせて、そこを納得できるまで深く掘る時間を渡さないと、そもそも深い学びなんて起こらない。

一斉授業の閾値

一斉授業でかつ授業規律を重んじるのであれば、
たまたまその授業者と趣味嗜好が合う数%の生徒だけが、深い学びに向かう機会を得ることになる。もちろん、一斉授業の授業スキルが高まれば、この割合を高めることもできる。

でも、それでも残る趣味嗜好が合わない生徒は、授業者のちょっとした発問や教材に深い学びの入り口を感じたものの、それを深めたいという欲求を抑えて、同じペースで進み続けないといけない。

そんな経験を12年も続けたら、そりゃー主体性もなくなるし深い学びもやり方がわからないまま大人になってしまうことになるよね。

深い学びが起こらない原因

原因はおそらく主に二つあある。

一つは制度的な問題。そんなこと言ったって入試のためにコンテンツはやり切らないといけない。だからペースはある程度授業者が掌握しないと入試に間に合わない。

もう一つは、仮に一斉授業という形を選択したとして、よっぽど天才的なスキルを生まれ持った授業者以外は、一斉授業で多くの生徒に深い学びを届けられるような授業スキルを磨くための膨大な時間を、捻出できないくらい学校は忙しい。

深い学びは十人十色

話を深い学びに戻す。
とにかく深い学びっていうのは、その形は多種多様で、誰にもコントロールできない類のものだ。深く学んでいる本人でさえ、自分の知的好奇心をコントロールできないからこそ深い学びに潜っていくわけだし、コントロールしたら多分浅いところで終わる。

授業者が質問に簡単に答えるのも同じ。
ネットで検索できちゃうけど、ここ自分で考えたら楽しいんじゃない?教えちゃっていいの?

くらいの感じがなんだかんだちょうど良いし、
そこで教えてもらうか自分で考えるか、またはどれくらいの時間は自分で考えるか、という辺りは学ぶ本人が決めればいい。

まずは車輪の再発明からで良い

“車輪の再発明”って言葉、時間の無駄という意味で使われるけど、こんだけ文明が豊かな時代なんだからゆっくりいろんな車輪を再発明させながら、世界って面白いな。って子供達が感じることができれば、それで良いのではないか。

そもそも、かつては世界の最先端だったニュートンが時間をかけてまとめた古典力学を、齢15-6の人間がテキストに沿って努力すれば理解し尽くすことができるということ自体がなかなか異常ともいえる。
物体の自由落下をセンサーか何かでグラフ化して、その法則性から運動方程式を生徒が見出すまで何回でも実験を繰り返して、ついに生徒が運動方程式と同等の法則を再発明したときに、

君はかのニュートンと同じ法則を見出した!素晴らしい!

って褒めていくことが、実際には現代の最先端の発見につながるのではないか。


そんなことを考えた夜でした。

お付き合いいただきありがとうございました。

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