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考え事#12 アウトプットは余白から

こんばんは。お久しぶりです。
学校は先週から夏休みに入りました。
最後の記事を書いたのが5月の頭だったので、あれから緊急事態宣言に伴う分散登校や、勤務校でのPCの配布など、色んなことに追われていました。自己を見失って自我に集中すると視野が狭くなります。良くないなぁと思います。

今日はタイトルの通りの内容をだらだら書こうかなと思います。

組織に最適化した自分を自我と呼ぶという話。

ちょっと前の記事で紹介した「出現する参加型社会」という本に、自己と自我という話があります。僕は最初この意味が本当によくわかりませんでした。どっちも自分じゃん。そう思いますよね?

それもそのはず。僕は学校という組織に就職してからというもの、特に「自我」ばかりを意識してきたのでした。自我は開発できます。集団や社会にとって自分がどんな歯車になることを求められているのか。その要請に従って開発してきた自分のことを自我と呼ぶのだと理解しています。自我を開発することこそが「大人」になること、ともいえるでしょう。

自己とは内なる自分自身のこと

これも、何を言ってるんだ?という感覚を覚える人は少なくないのではないでしょうか。自己とは、社会の歯車としての要素を一切取り払った自分のことなのだと理解しています。色んな表現方法がありますが、僕はこの表現が一番しっくりきています。

問題は、自我を開発すればするほど、自己を見失うという構造にあるわけです。

自我開発=社会適応のために自己に蓋をすること

この構造がとても厄介です。ひとたび自我を開発し始めると、自己と向き合うことがどんどん難しくなっていきます。自己を大事にすると、例えば宿題やりたくない→けど、やらないといけない。という状況のように、自我開発できない人はまるでダメな人だ、というような状況に陥ります。これってとても苦しいことじゃないですか?慣れると案外やっていけるものではあるのですが、その過程で挫折する人がいてもそれは悪いことではないと思うんです。だって、「自我を訓練する場所」である学校って、学ぶ領域が限られていますもん。

社会が崩れ始めた音が聞こえる、いま。

色んな所で、いろんな社会、システムが崩れ始めている音が、いま多くの人に聞こえ始めているのではないでしょうか。これによって、いままで盲目的に自我を開発してきた僕のような人間にも、果たして今までの正解はいつまで正解なのだろうか?という問いが生まれている訳です。今まで通りの生き方では幸せにはなれないな。という感覚を持っている、と言ってもいいかもしれません。

…というのをここに書こう、と思った自己の発見

夏休みに入って1週間が経過して、1学期の様々なやり残しがだいたい消化されてきたことで、自分がやりたいと感じることに素直に耳を傾けられるようになってきました。それで、noteを開いてみて、笑ってしまったんです。過去の自分の投稿記録を見ると、わざとらしいと感じるほどに「暇な時期」に投稿数が多いというのが見えたからです。

もちろん僕の怠けものな性格、なんかも関係しているのだと思いますが、まあここは自由に書きだす場として使っているので、ある意味とても自然な自分の状況を把握できて面白いです。

試験毎の課題をやめた学年で成績が上がっている。

ただの独白だけではなく、ちょっとだけ学校の話も。
今年の3年生、昨年から引き続き試験ごとの課題をやめた学年なのですが、模試の偏差値が上がっているんです(偏差値教育の良し悪しは別として)。

これも、「余白」が関係しているのだろうな、と個人的には思っています。結局、人から言われるとみんななんでも嫌になってしまうんだと思うんですよね。自分でやりたい、とかやろう。とか思うことが大切で、そういう「自己」を発見するには、頑張りすぎないで「余白」を大切にすることが必要なんだ。と思った夏休み序盤の夜でした。お読みいただきありがとうございました。

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