働き方改革と生産性

前稿ではテクノロジーが人間を仕事のストレスから解放し得るかについて言及したが、本稿では制度としてそれが成し得るかについて、最近はすっかり言葉として定着した「働き方改革」について考えたいと思う。

「働き方改革は成功するのか?」ということについては、これまたいろんな人が、いろんなメデイアで、どちらかと言うと批判的なスタンスで、散々議論しているわけだが、一旦自分の肌感覚を交えながら改めて考えてみたい。

結論を述べると、やはりこのままでは「成功」は難しいと思う。
もう少しちゃんと言うと、「成功する企業はごく少数」であり、「国全体」としては「概ね失敗」ということになると考える。

まず、働き方改革を「残業を減らす取り組み」と考えた場合、会社は表面上のコストを下げるいい機会なので、とりあえず仕組みを導入して、退勤時間が早まる、という現象自体は広まり、結果として一時的な労務コストは減るだろう。

また、「生活費のために無理やり残業している」「帰りにくい雰囲気なのでなんとなく残業している」という人を多く抱える企業は、一定の効果はあるかもしれない。

しかし、働き方改革で解決したい本当の課題は、そんなしょっぱい部分なのだろうか?

どうしてもやらなければならない仕事をしている人たちについて考えて見たい。

勤務時間が短くなったとしても、今までと同じアウトプットを求められる場合、今までと同じアウトプットを急に短い時間でできるようになるかというと、それは難しい。

マシンタイムが生産量を決めるようなタイプの仕事は、アウトプットの量は生産計画の問題なので、企業がその分の稼働を残業か、新規採用による分業か、生産量を減らすかして対応するか、(あるいは、法廷上残業代が発生しない人がやるか・・・)などで対応するだろう。

一方、極端な例として、芸術家みたいな人は仕事のスピードを上げたくてもあげられないケースもあるし、そもそも与えられた時間一杯使っていいものを作りたいため、時間が短くなるとこれまでよりもアウトプットが落ちる可能性が高い。

実際にホワイトカラーの人たちは、ものによって程度の差はもちろんあるが、その中間くらいの仕事をしているように思う。
つまり、ある程度時間で生産量は決まるけれども、時間をかければ品質的なアウトプットをより高めることができるし、それを顧客側もある程度望んでいるような仕事である。(提案資料のようなものをイメージするとわかりやすいかもしれない)

なので、時短になって生産量と品質のどちらもこれまでと同等を求められた場合、「スピードを上げて生産する」ということが必須となる。

ここに失敗の要因があると考えている。

まず、人は急に「足が速い人」にはなれない。
しかし、制度は導入され、鞭だけバシバシ振るわれている、というのが現状である。それだけでストレスは爆上がりである。

短距離選手と長距離選手ではついている筋肉が違っており、一口に「走る」といってもその特性は全然違うように、そもそも人それぞれ心地よいスピードは異なっており「そんなスピードで走れないし、走りたくない」ということになる。

そんな状況で「働き方改革」という名の、ラップタイムを短くする策を一律に当てはめようとしても、労働者が発狂するか、いずれにせよ終わらないけど残業申請もできないので、隠れて仕事して金銭的にも心身的にも追い込まれる、というどちらかになる。

ただ、「金が余ってる」企業は、そこまで速く走らなくても人を増やして対応できるし、そもそも走力的なスペックが高い人を雇っていて、いかようにでも対応できてしまう、ということはあり得るだろう。

しかし、表面上のコスト削減で喜んでるような企業は、前稿の通り下がったコストはいずれ市場価格に転嫁されるため、さらなるコスト削減をいつか迫られ、その時、労働者が隠れ残業で手一杯なんて状態になってようものなら、完全に破綻してしまう。

では、根本的な問題はなんなのか。

それは「生産性」という指標だと考える。

生産性=OUTPUT/INPUTというのが一般的な定義であり、よく数値的なものとして考えられている。利益率=利益/売り上げ のようなものだろうか。

その生産性を高めるために、「INPUT」を減らす、ということが働き方改革で行われていることなわけだが、正直言ってそれはもう限界に来ているのではないか。

もちろん、生産性は高い方が良いし、足の速い人が素晴らしいことは言うまでもなく、そのために自身を鍛えるのは大変尊いことで、否定する余地もない。

しかし、仕事という観点で見た時、各企業による「INPUT」削減合戦は来るところまで来ており、「いかにショートカットキーを使いこなし、短時間で資料を作成するか」というようなレベルに来ている。

それは、走るフォームを微妙に修正して、タイムを0.00x秒縮めるような作業である。

これの問題は「それがちっとも楽しくない」ということだ。

100mの選手であれば、少しでもタイムを縮めることが何よりの目的であり、そこにどんな努力も惜しまない、というのは極めて正常なことだろう。

ところが、いわゆるビジネスの世界で、どんなにタイムを短くしたところで、それによって生み出される利益は微々たるもので、かつ自分に返ってくるわけでもなく、そして何より「どこかの企業に大半がかっさらわれていく」のである。

あとはせいぜい「昨年に比べ、生産性がx%UPしました!」という報告を喜んでする人と、喜んで聞く人がいるくらいだろうか。

「生産性」の何がいけないのか。

そこには「意味」という観点が抜け落ちていると思う。

まず、ショートカットキーを使いこなし、誤字脱字なく、見栄えも良い資料を最短で作り上げる、という完璧な仕事をしているうちに、「もうロボットがやってくれよ」と思ったことのある人は少なくないだろう。

この得も言われぬ「ロボット感」、つまり「人がやる意味があるのか?」というものに、INPUTの削減が進めば進むほど、なっていってるのではないか。

ちなみに補足しておくと、これは「AIの登場によって、人の仕事の何割が奪われる」という類の話しではなく、「ロボットができるかどうかは一旦置いといて、感情がなく、文句も言わず、速く正確にできる何か」が理想の働き手になってしまっている、ということを言っている。

もう一つ意味の話でいうと、その仕事が「そもそも意味がない」ということがある。

我々の仕事の大半が結局やっていることは、「限られたパイの奪い合い」である。

企業は何かしらのものを売るために、お金にしろ、時間にしろ、消費者が持っている有限なものを奪い合って、それが業績になる。

では、たくさん奪って、業績が上がった結果、どうなるのか?

はっきり言ってどうにもならない。

せいぜい、給料が少しばかり増えたり、業績UPに貢献した人の社内でのプレゼンスが上がるくらいで、世の中全般で見た時には、何にも変わらない。

この辺の話はまた別の機会に、「意味」という観点で掘り下げたいと思う。

とにかく、我々は盲目的に生産性を上げて、売り上げを増やすことが「良いこと」だと考えている節があるように思うが、それ自体にはほとんど意味がないし、何より全然楽しくない。

したがって、「働き方改革」によって短くなった労働時間の中で、よりアウトプットを高める「意味」を感じられない以上、生産性は上がらないし、そもそも「生産性」という指標を使ってものごとを判断しているうちは、事態は好転しない。

「じゃあ、どうすれば良いのか?」という話は、「働くことの意味」の話と併せてまたの機会に整理したいと思う。

なんだか歯切れが悪いが、今回は一旦、ここまでにしておきたい。

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