エヴァンゲリオンと僕
※積極的にネタバレする気はないですが、ネタバレしちゃいそうな気がするので気になる人は避けてください。
これはあれだ。一種の卒業文集のようなもの。エヴァンゲリオンという素晴らしい作品と同時代に生きた僕の思い出をここに記しておく。
シンエヴァンゲリオンを観た。昨日観て、いろんな人の考察や感想を読んでから、今日2回目を観た。評判通りの素晴らしい作品で、多くの人ときっと同じようにすっきりとした気持ちでいる。
考察などをするつもりはない。その道のプロに任せるとして、僕は僕の思い出を書く。ちなみに共感した記事は下記のふたつ。
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記憶と辿ると、エヴァンゲリオンとの最初の出会いは書店だった。1997年、テレビで放映されて1年後。話題となって再放送されていた時期に、愛読していたポップカルチャー誌「スタジオボイス」で特集されたのがきっかけだった。ふだんは音楽や映画、ファッション、建築などをテーマとした雑誌なのに、急にアニメが表紙になっているのに驚きつつ、少し恥ずかしいと思いながら手に取ってレジに向かったのを覚えている。当時、僕はちょうどハタチだった。
その雑誌に込められた情報の内容、密度に圧倒されて、あわてて作品を観た。今思うと、僕にとってのエヴァンゲリオンは2つの魅力があった。ひとつめは、登場人物の成長ストーリーそのもの。ふたつめは、その表現手法。
なかでも僕はふたつめの表現手法について、とても興味を持った。
ジャミロクワイを聴いてからスティーヴィーワンダーを知ったように、サニーデイサービスを聴いてからはっぴいえんどを知ったように、僕はエヴァから多くのことを知った。アニメ以外のところをあえてピックアップすると、今ではエヴァっぽい、と表現されるタイポグラフィは市川崑の影響であること。
狂気じみた綾波のポエムは精神科医であり詩人だったR.D.レインの作品から。
テレビ版のエンディングはあきらかにフェリーニの8 1/2の影響。
などなど。まるで渋谷系音楽の元ネタを探すように、さまざまな文化を知ることができた。僕にとって当時のエヴァは、ポップカルチャーの集大成としての存在だった。圧倒的な密度で詰め込まれたコンテクストを貪りつくし、存分に楽しんだ。
新劇場版は、序破Qと、純粋なエンターテイメントとして楽しませてもらった。そりゃQの展開には驚いたけれども。きっと探そうと思えば新しいコンテクストにも出会えたのだろうけれども、社会人になった僕には時間がなさすぎた。
そしてシンエヴァンゲリオンをみた。そこには、僕が学生の頃にみたテレビ版、旧劇場版を元ネタ的に消化し、2021年だから可能になった技術を駆使し、その未熟さも活用した映像表現があった。25年たって、エヴァはエヴァを元ネタとするに至った。その結果、エヴァはエヴァのままだった。そのことに僕はなぜかとても安心した。
ここまで書いて、では登場人物の成長ストーリーのほうには興味がなかったのか、というとそうではない。というかとても影響を受けた。学生の頃は恥ずかしいほど影響を受けてしまったので黒歴史として閉じ込めておく。
シンエヴァンゲリオンのラストシーン。大人になったマリのキャラクターデザインは安野モヨコだったんじゃなかろうか。ぱっと見たときにそう感じたし、そうだとすると素晴らしいラストシーンだな、と改めて思った。
僕も、妻と一緒に久しぶりに長崎の実家に帰りたいと思った。
世界は美しい。
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