人には聞けない母乳の話

『母乳は本当に出るのか?』

ということが、幼い頃からずっと気になっていた。私個人の将来的な乳の出を懸念していたのではなく、世の全ての母親から乳が出ることに懐疑的だった。

誤解のないよう言い添えておくと、小中学校の保健の先生たちはきちんと指導要領通りに教えてくれていたと思う。私が勝手に信じられなかっただけだ。たまたま身近に乳幼児がいなかったからというのもある。

なぜ信じられなかったか

まず乳首にはそれらしい穴が空いてるようには見えないし、むしろ空いていたら四六時中出っ放しになってしまう。また、個人差があるとはいえだいたいお椀くらいサイズの場所に、大して貯水量があるとは思えない。したがって『お乳をあげる』と表現はするものの、その実は『乳首付近からわずかに滲む分泌物を赤ちゃんに与えるという古くからの習慣が残っている』とかではないか?とぼんやり推測していた。『大昔は人間の乳も、乳牛並みとは言わないまでもそれなりに出ていたに違いない。しかし現代ではその機能は衰え、授乳はポーズでしかなく、赤ちゃんはほとんどの栄養を粉ミルクから得ているのではないか..』など、なんだかありそうな話ではないか。よくよく考えればおかしいと気付きそうなものだが、自分自身の妊娠出産が縁遠いうちは深く考えるまでに至らなかった。

月日が流れ、私が成人して少し経つ頃には、友人の中にも出産し母になる子が現れるようになった。彼女らに直接、実際どうなのかを訊くこともできたが、お互いハタチを少し過ぎた頃、それぞれの進路を選んだ友人との久々の再会というときは当然積もる話があるもので、そんな席に「乳は本当に出るのか?」の話題の入る隙はない。

あと、実際口に出そうとするとその質問のデリケートさに改めて気付く。なにぶん『乳』である。同性の友人といえど「やっぱり母乳あげてるの?」はとてもじゃないが聞けない。性ホルモンのはたらきによるもの・プライベートゾーンに関するものはむやみに言及すべきじゃない。ハゲてる当人の前で「やっぱり生えてこないの?」とは聞けないのと同じだろう。違うか。

さらに年月が過ぎ、私自身が妊娠したとき、やっとその長年の謎に切り込むこととなる。まず妊娠・出産関連の書籍を通して、『授乳はポーズでしかない』等のあり得ない勘違いを正すことができた。俗に言う完母・完ミ・混合といったキーワードも習得した。ただし後述のマイナートラブルについては全く知る由もなかったため、「ミルク買わなくて済むの?なら完母一択じゃん!」等ととてつもなく甘い考えでいた。

正産期に入ってからは毎日風呂で乳頭マッサージなるものを行っていた。これをやると産後 母乳育児がスムーズに開始できる、とインターネットが教えてくれたからだ。よく調べればわかるのだが、乳房で母乳が生産されるのは出産後だ。なのに私は『出産までに出始めるもの』と、ここでも勘違いをしていた。そのため毎夜マッサージしながら「今日も1滴も出ない..子育てに間に合うのだろうか..」と要らぬ不安を募らせていた。

事態が大きく動いたのは産後、たしか2〜3日目のことだ。病室に助産師さんが授乳指導に訪れた。難産の末大量出血に見舞われていた私は、この時点でまだ授乳を経験していなかった。

助産師さんに「お乳は出てそうですか?」と訊かれ、ついにきたか!と思った。出そうかどうかはむしろ教えてほしい。私は少し緊張しながらも、やや前のめりに、乳頭マッサージを続けてきたが一滴も出たことがない旨を伝えた。助産師さんは若くてとても愛想の良いひとだったのを覚えている。彼女はうーんと首を傾げた後「失礼しま〜す」と言っておもむろに私の乳首をギュッとつまんだ。仮にも初対面の人間が「失礼します」であらゆる段階をすっ飛ばしての乳首ギュッだったので私はいささか面食らったが、ここで動揺していたら『何を乳首ごときで..』と思われそうだったので耐えた。助産師さんにとっては乳首もお股も分娩台も、どれも日常なのだろうから。私は平静を装い「ホント、出る気配がなくて..笑」とあたりさわりなく『散歩中の飼い主がリードの先の愛犬を撫でられた』くらいのノリで言った。

すると次の瞬間、つままれた乳首の乳頭に米粒ほどの白いしずくがプクリと現れた。開通の瞬間だった。「お、あ、ええっ?!」と変な声を出す私をよそに、助産師さんは「あっ、大丈夫そうですね〜!」と言って授乳指導に移った。私にしてみれば愛犬が突如バク宙したようなものだ。しばらく驚きと喜びで浮き足立ってフワフワしてしまった。

こうして無事、己が母乳と会い見えたわけだが、これでめでたしめでたしでは全くなかった。

母乳育児に対して元々私が抱いていたイメージは下記である。

赤子吸う→乳出る→母子共にhappy 〜fin〜

実際は、下記の通りだった。

赤子の口と乳首ドッキングチャレンジ→失敗(激痛)→失敗(激痛)→失敗(激痛)→成功(激痛)→乳出る→出てる?→x分経過したので左右入れ替え→チャレンジ再び→失敗(激痛)→失敗(激痛)→成功(激痛)→乳??→乳ほんまに出てる???→さらにx分経過したので授乳終了→哺乳瓶でミルクをあげる→飲み切る→ゲップチャレンジ→出ない→チャレンジ再び→出ない→寝かす→溢乳※→縦抱きで様子見→三度チャレンジ→...(所要時間80分)(1時間後に泣き出して最初に戻る)〜nightmare〜

※溢乳...ミルクを吐き戻すこと。最初めちゃくちゃあせる。


まず授乳で一番予想外だったのは、乳首がものすごく痛むということだった。もちろん個人差は相当あると思うが。うちの子は乳首をしっかりくわえ込んでくれない(=浅吸い)ことが多く、これをされるととても痛い。吸わせる瞬間に全神経を集中させ、赤子のお口に平らに潰した乳首を押し込んでしっかりくわえさせる。いわばドッキングさせる。なお全ての赤ちゃんに言えることだが、口に触れたものを強く吸う動きを吸啜反射といい、おっぱいを吸えるよう生まれながらにして備わっている反応だという。だったら最初から深く吸うようにプログラムされていてほしい。ドッキングに失敗しては何度「浅い!!!!!涙」と声なき声で叫んだものか。わしゃ剣術師範か。

ちなみに私の痛みは内側蓄積型で、外傷はないが授乳回数を重ねるごとに乳首の内側がギリギリジンジン痛んでくる。例えるなら両乳首の裏にできた青タンが常にぎゅうぎゅう押されてる感じだろうか。何もしなくても痛いし、下着が触れてももちろん痛い。無意識で乳頭が下着に触れないよう庇うような姿勢になるため、肩がものすごく凝るという副産物付きだ。

なお授乳時の乳頭ケア用のクリームが市販されているが、私には効果がなかった。それらは基本的に赤ちゃんが口に含んでも問題ないよう天然成分で構成されており、患部を治療するのではなくあくまで外部の刺激や乾燥から保護するためのものである。ゆえに既に痛んでしまってからでは効き目が物足りない。私は授乳後に毎回しっかり塗り込んだ上ラップでパックも試みていた。もはや母乳をあげているのか乳頭を介してクリームを与えてるのかわからなくなるくらい頑張ったが、痛みに変化はなかった。最終的に、乳頭保護器を使う・搾乳した母乳を哺乳瓶であげる等でなんとか緩和するやり方に落ち着いた。

次に頭を悩ませたのが、圧倒的に母乳量が足りない問題だ。母乳が最初からピューピュー出る人もいれば、私のように、ポタ.....ポタ.......としか出ない人もいる。最初は出なくてもとにかく3時間置きに赤子に吸わせることで母乳量は増えていく。ただ赤子が飲む量も日に日に増えていくのでまぁ追いつかない。結局、毎回授乳後に粉ミルクを足すこと(いわゆる混合)になる。すると授乳に加え、ミルク作り、哺乳瓶の洗浄・消毒の手間が増えるのでめちゃくちゃ面倒臭い。寝不足の体にこたえる。

母乳量が足りない問題にも関連してくるのだが、母乳はミルクに比べて腹持ちが悪い。ミルクで3時間持つところが母乳だと同じ量を飲ませても1時間足らずで泣き出して乳を欲したりする。そこで乳を差し出しても乳房ではまだ十分な量が生産されていないので、お腹が満たされず、またすぐに泣き出してしまう。そうして頻回授乳を繰り返していると乳首が酷使され痛みが増す、という悪循環に陥る。情け容赦ない話である。

最後に、しばらく授乳も搾乳もしてないと乳房がガチガチに張ってしまう問題がある。生産過多になった母乳が乳房の中に滞ってしまうためだ。脚色抜きでマジで岩になる。体の前面にふたつの岩が現れる。「オッ、岩か」で済めばいいがもちろん痛い。ようするに母乳は、吸わせても痛いし吸わせなくても痛いのだ。適度に休みなく吸わせ続けなければならず、途中下車できない暴走特急と化す。

以上のように、お乳をあげる行為そのものが痛いし、あげても腹持ちが悪く頻回授乳で痛み倍増&ろくに眠れないし、哺乳瓶の片付けもしんどいし、かといってしばらくお乳を放っておくと岩出現だしで、結果、いっそ完全ミルクにしてしまいたいという衝動が1日に何度もわく。

長々と母乳育児の辛みを書き連ねたが、ここに書いたのはあくまでサンプル数1の体験談であり、個人差がものすごく大きい。「大袈裟」「こんなに辛くねーし!」って人もいれば、「もっとキツイ」「そんなもんで済んでよかったな!」って人ももちろんいると思うので留意されたい。

なお、“授乳を続けているうちに乳首が鍛えられ痛みが緩和されていく”ケースをよく聞くが、私はそうなるまでは耐えかねた。

1人目のときは難産で産後1ヶ月以上体のあちこちが痛く、ミルクで代用できるものならどんどん利用して少しでも“痛い”を減らしたかった。

2人目のときは上の子も自宅保育していたため、頻回授乳&搾乳をしていたら寝る時間がほとんどなくなって続けられなかった。いや、正確には現在進行形で完ミに移行しようとしている最中である。2ヶ月以上混合を続けた今もなお痛い。私の乳首、強くなる気がなさすぎる。

夜な夜な検索魔となり授乳まわりの知識を蓄積した今なら、過去の自分が抱いていたあらゆる疑問に答えることができると思うが、もちろんそんなことは叶わないし、将来教えてあげられる娘も今のところいない。このままではいつの日か息子の嫁にあーだこーだ言う 妖怪・デリカシーゼロ授乳義母ババァという、厄介さ&みっともなさがカンストレベルのヤバいやつが爆誕してしまうおそれがあるので、この思いを成仏させるつもりで本記事を書いた。

というか、保健体育の授業で教えてくれたらいいのにと思う。聖母のようにイメージされがちな授乳姿だが、その裏には無慈悲な暴走特急なのかもしれないということを..

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