母の愛が全てじゃないと信じたい

先日、とある情報番組で小林麻耶さんが発したコメントが話題になった。

小林麻耶さんや志らくさんを批判したり持ち上げたりする気は毛頭ないし、そもそもこのテーマに明確な答えがあるとも思っていないのだが、自らの気持ちの整理と備忘を兼ねて筆を取った。

私の姉は「女に生まれた以上出産に興味はあるが、子供がかわいそうなので産みたくない」と言っていた。私たちの母親は進行性のガンで40歳で死去した。母親の母親も同じ病で38歳で死去した。私たちきょうだいは医者に「遺伝的な要素が強いから、あなた達も健診は怠るな」と言われている。なので私も姉も、子供を産んでもその子が大人になるまで生きていられないかもしれないと思っていて、それで先述の姉の発言に繋がる。

私が生まれてすぐ、1歳になる前に母は死去した。周りから憐みの言葉をたくさんいただいたが、正直、物心ついた頃から母親が居ない状態が定常だったので大して辛くなかったし、周りを見渡してハンディを感じることもなかったので、具体的に何がどう可哀想なのか分からなかった。ただ、姉からは常々「母親がいないと学校や地域のコミュニティで適当にあしらわれるから、なるだけ気丈に振る舞いな」と言われていたので、素直にそれは損だなぁと思っていた。

その後色々あって私は子を産んで、その子は今生後8ヶ月になろうとしている。

子どもは想像以上に弱かった

産む前から体調には気を遣っていた。産んだ後も、あれだけ大変な思いをして産んだのだ、なくしてなるものかとものすごく神経をすり減らして私は世話をした。息子は、生後3ヶ月を過ぎた頃から社会的微笑が見られるようになり、そのうち首が座り、自分の意思で辺りを見渡し、おもちゃを触るようになった。その後、離乳食を嫌がったり、夜泣きをするようにもなった。私は息子を授かったことで、育児の大変さと同時に、子どもとはこんなにも弱い存在なのかということを思い知った。本当に弱い。想像していたより何倍も弱い。何もできない。当然のことなのだが、私がいないとこの子は生きていけないのだ。

夜泣きをしたとき、薄明かりの中で息子を腕に抱き上げると、さっきまでこの世の終わりのように金切声をあげていたのが嘘のように落ち着きを取り戻し、目頭の窪みに涙を溜めたまま、口をむにゃむにゃさせて再び眠りに落ちていく。この瞬間、そのあまりにも穏やかな表情にこちらも思わず笑みが溢れてしまう。「愛おしい」とも表現できるが、「なんて調子のいいやつだ!」の方が私はしっくりくる。夜中に何やら不快を察知して泣き喚くも、抱き上げられた途端安心して即「じゃ、寝るわ」なのだ。もう本当に笑っちゃうくらい弱っちい。いや”愛おしい”の正体はそういうことなのかもしれない。

最近は後追いも激しくなってきた。日中はベビーサークルに入れておくことが多いのだが、家事をするために少しでも離れると、サークルの柵につかまり立ちして激しく揺すって泣きながら抗議してくる。私がサークルの中に戻るとケロッとしておもちゃに突進していく。具体的にどうして欲しいとかはなくて、ただ私がそばにいれば機嫌を損ねることはない。

今、私がいなくなったら、息子は夜 泣き出しても誰にも抱き上げられないまま泣き続けるかもしれない。サークルの中に人がいないことをひたすら涙が枯れるまで抗議し続けるかもしれない。離乳食の時間に、眠気と闘って不機嫌でぐずぐずしながら私に縋り付いて、私の服に涙とよだれと鼻水を擦り付けるのが得意な息子、そうなったら、疲れとストレスでくたくたになりながらも「わがままで弱くて調子がいいやつめ」と小憎たらしさと僅かなおかしみを感じながら、私が息子を撫でる。私がいなくなったら息子は誰に縋るのだろうか。縋ることができずになんとか泣き止んだとして、後日別の場所で同年代の子が母親に縋る姿を目にしたらどんな気持ちになるだろうか。

子どものそんな状況を”不幸”以外になんと呼べようか。

子どもの母親代わりになれる大人はいると思う。そうならざるを得ない状況や、逆にそうなることを切望しているパターンなんかもあるかもしれない。当然、私は私の経験したことしか語れないのであまり主語を大きくするつもりはないのだが、母親がいない子どもが母親相当の愛情を注がれることって非常に難しいと今は思っている。理由は、私が育児ってクソ難しいと思うからである。前述の通り子どもはびっくりするくらい弱くて、世話するのはめちゃくちゃに面倒だし馬鹿みたいに手間が掛かるし全然画一的じゃないし。そんなのに付き合うために母親は睡眠や飲食の質・量・タイミングを制限されたりする。(これ、マズローの5大欲求でいうところの最下段でさえ思うように叶えられないというのは強調しておきたい。ものすごくつらい。)そもそも産む時に命を賭けている。そうまでして育てる状況に、母親以外の大人が陥ることってなかなかない。(もちろん、陥れよと思っているわけではない。母親もしんどいし色んな人やものに分担できるものなら分担したい、でも現状しようがない部分があって、それらを担っている人物のことをここでは母親と呼んでいると思って欲しい)

逆にそうまでして子どもにいちいち真剣に付き合って育てる人が母親以外にいたならばそれはとても幸せなことだと思う。

私は、別に斜に構えているわけではなく正直なところ、自分自身があらゆる人の親切や憐みで育ってこれたと思っている。まだハイハイしかできない赤ちゃんの私を預かってくれた親戚も毎日保育園に送り迎えしてくれた母の職場の同僚も、祖父母も家政婦さんも、心の底から感謝はしている。しかしそれらの親切は不連続のもので、確実に私が今息子に抱いている感情や態度とは異なるものであった。何より彼ら彼女らにはそれぞれ本来の家族や生活圏があったし、記憶の限り当時の私もそのことはしっかりと感じていた。とても悲しいが。

子どもを育てていて気づいた呪い

これらのことは息子を産まなかったら気づかなかったかもしれない。息子を大切に育てたいと思えば思うほど、幼い頃の自分が可哀想でその救いのなさに辛くてたまらなくなる。まるで呪いのようにおそらく生涯に渡って付き纏うのだと思う。この呪いが果たして、最初に引用した記事でいうところの”母親以外の愛情”があれば無くせたのかどうかは、今の私は正直怪しいと思っている。

ただ、私は小林麻耶さんのように『母親がいないことを不幸に感じてほしくない』と切に願う立場になったこともないので、結局私たちはお互いに想像力を働かせるしかないのだろうなあ。



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