未亡人日記006 私と「富士日記」

初めて武田百合子の文章を読んだのは雑誌「マリ・クレール」の連載だった。

「日日雑記」という、そっけないタイトルで、見開き2ページで、モノクロの写真が添えられていた。
「ある日。」
という書き出しがすごい、と思った。このそっけない日記に、なにか底知れぬものを感じ、本人のことをあまり知らないまま、毎号愛読していた。

このころのマリ・クレールはいまや伝説といってもいい編集方針で、女性ファッション誌の体裁をとりながら、カルチャー&文芸誌でもあった。ゼミでなにかの資料に持参してO先生に見せたら驚いて、気に入ってくれた。

私は仏文科の学生だった。
学科には正式のゼミはなかったが、30代初めの気鋭の助教授O先生が自主企画でやっていた「ドン・ジュアン神話」輪読のゼミに、フランス語の力は全く足りないのに参加していた。一緒にゼミを受けていた研究助手の大学院生には迷惑だったことだろう。8号館にあるO先生の狭い研究室で、パイプ椅子を寄せて4人ぐらいで輪になって輪読する。ぬるい扇風機の風が心地よく、眠りを誘われることがしばしばだった。

 読書家なので尊敬していた哲学科の男の子に、この武田百合子のエッセイが面白いという話をしたら、彼はアルバイトで武田百合子の原稿を取りに行ったことがあるという。
「えー、うらやましい! どんな人?」
と勢い込んで聞くと
「地味なおばさん」
と言われて、ちょっと夢を壊された気持ちになった。

武田百合子のエッセイは読んでも、その夫が武田泰淳という作家なことを知らず、知った後もその小説を読んだことのない大学生だった。読みたい本はたくさんあった。時は昭和の終わりから平成にかけて。英語の試験や資格試験で忙しい今の大学生に比べたら、だいぶのんびりした大学生活だった。

マスコミ志望だったわたしはマリ・クレールの版元の出版社に入りたかった。就職試験用の書類応募に、版元の本を選んで文章を書く課題があって、塩野七生の「チェーザレ・ボルジア」と迷ったが、すでに愛読書になっていた「富士日記」をテーマに書いた。何を書いたかはもう全く覚えていない。でも、再読していて、こころに残るシーンがあり、たぶんそれについては触れたと思う。

作者が伊豆かどこかの所有地を見に行き、真っ暗になった帰り路を家に向かって車を飛ばしながら「家があって家族がいるっていい!」というところ。普段の日記の文章は叫んではいないのに、そこだけ叫んでいるような激しさがあった。エクスクラメーションマークもあった。たぶん夫の武田泰淳はもうかなり悪かったのかもしれない。

後年、O先生は50代の初めに若くして亡くなられた。
イグナチオ教会での葬儀で、私たちとあまり年の変わらない(実際、別の大学の教え子だという話だった)、美しい奥様が落ち着いた気品あふれるご挨拶をしていて、すごいな、と思った。私はあんなことできるだろうか?

 昨年、私自身が50歳で夫を送るはめになってしまったのだけれど、喪主を務めながら私はO先生の葬儀と、凛として美しい奥様のことを思い出していたと思う。

夫の晩年のころ、手帳の備忘録に私は書いている。
「私には、家族がいて、夫がいて、住むうちがあって、仕事がある」
自分に言い聞かせるように書いている。

夜の会食の後、深い時間に一人暗闇の中を帰宅して、家の鍵を開けると、夫と3人の子供の寝息がある日々、というのは、なんという祝福だったのだろうか。

手の中に「まだある」、ものを確かめながら、そのありがたみを全身で感じるために叫ぶ。「富士日記」の百合子さんは、大声ではないが確かに叫んでいると私には思える。

おそらく永遠に失われてしまうけれど、今この瞬間は確かにある。それを確認するために書くことも、同じである。
車を飛ばして急いで家に帰るように切実で、美しい。

「富士日記」があったからこそ、わたしはこの流れゆく感情をとらえることができたのだろうか。

 


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