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未亡人日記68●鐘

窓からはお堀が見下ろせた。

丸の内線が地上に出てホームに止まっている。その前にグラウンド。やや中景にビルがふたつみつ、固まって、広々とした空の中の目印になっている。

もう夕方だった。


私がいるホワイエというのかなんというのか、教室前のゆったりしたスペースへ、ドアを開けてある教室から講義の声が流れてくる。東南アジアの国や地名。近現代史なのか、政治経済なのか、おそらく一般教養の授業で、女性の教授の声だった。

(同じぐらいの年かもしれないな)

と、聞くともなしに聞いていた。


私はMacで宿題のレポートを打っていた。
同じようにノートパソコンを広げて、数人の学生が机と椅子の離れ小島を作っている。この子達はうちの息子と同級生とかなんだよねえ、と指を動かしながら、科目等履修生の私はそんなことを頭の隅で思っている。


その時。
講義の声を掻き消すように、急に鐘が鳴り出した。

隣の教会から聞こえてくる慌ただしい鐘を聴きながら私は変な気持ちになった。
こんな夕暮れ、どこかにあった。


教室で講義を受けているこの学生たちは、これから社会に出ていくんだよね。

就活して、「お祈り」されたり内定もらったり一喜一憂して、社会人として、もしくは大学院に進んだりして研究するのかもしれないけど、とにかくこの学び舎を出て社会というよく分からない茫漠とした海を、恐れながら進んでいくんだよね。輝かしい未来を、未知なる運命を恐れながら。

今私はここでMacを開いて同じように振る舞っているんだけど、その私はこれから社会に出るわけじゃなくて、むしろ彼らが恐れている社会から環流されてここに戻ってきているんだよね。でもその私が未来を恐れていないかというと、同じように「この後私は一体どうなるんだろう」という初老らしい恐れは持っているわけで。

それは似て非なるものだろう。

何しろ、何者でもない不安を持っている学生と違って、私はもう何者かになってしまっている。
上がることもない人生を、ただただ受け止める。

何者かになってしまったのに、結局は何者でもなかった自分をギュッと抱きしめないといけないんだよ。(なんなら、夫も死んでしまったしね)。


ここで鐘を聞いていると、まるで私は今20歳のようにも思える。でも同時に、人生の輝かしい時間はごく短いことを悟ることもできる。

鐘が鳴っている間、アンビバレンツな気持ちに引き裂かれながら、ほんの一瞬、私は目を瞑っていた。

邯鄲の夢。




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