そうして終わりをむかえる

そうして終わりをむかえる


気づけば土曜日になっている。
手元には記事を書きかけたスマホが転がっている。電池が切れている。
3年使っているスマホは一日と電池がもたない、故に供給されなくなったただの精密板は部屋の質量を僅かばかり埋めるだけになっていた。

終わりをむかえた。


毎週金曜日はnoteの更新という目標が1ヶ月ちょいで崩れさるのだった。

このまま諦めるのも癪なので、今度こそはと土曜日の朝にスマホを充電器にさす。

下書き機能に残っている書きかけの残骸を見て、昨日の坂口は何が書きたかったのかよくわからなくなってしまった。

また次期をみて過去の坂口と何が書きたかったのかを練り直し、投稿しようと思う。
それまでしばし、下書きに埋もれてもらおう。


というわけで結局のところ、最初から書き直すことになった。
終わりをむかえる、とタイトルに書いたのでこれを掘り下げてみる。

終わりがある、と考えるとどんな気持ちになるのか。
寂しい、嬉しい、悲しい、悔しい、色々ある。

「今」に対してどのような気の置き方をしているのかで変わってくる感情だと思っている。

今が退屈で、早く終わってほしいような状態で終わりの時間を待つイメージ。(学校で退屈な授業を受けている時とか、役所の待ち時間とか

本番に向けて練習や準備作業で忙しい毎日を過ごしていて、いざ本番が終わった後だとか。

主観(自分)が辿っていた「今」によって終わりは性質を変えるのである。

そして大体の意識高い系のセミナー情報教材系(特にスピリチュアル系統に多い)はこの手の話から展開を広げてくる。

変な話に巻き込まれない為のチェックポイントである。
話が逸れている。

この"終わり"という区切りを大切にできるか、というか意識できるか(無意識から意識できている状態に引っ張ってこれるか)で物事の質を高められるのではないだろうか。

そういう観点からいくと、生と死は物凄く完成されている位置付けだと思う。

気の遠くなる確率から、世に掬い上げられた、または存在することができるようになった「生」

様々な過程を経て蓄積されたものがすべて無に還る「死」(受け継がれるものは「生」になるが、主観のものが滅ぶならそれは「死」である)

このバランスはとても大事だと思っていて、どれか一方に過集中するとなると疎かな側面が発生してしまうし、かといって何も無い(何もしない)間を作り続けることは消費こそされど質はきっと低くなっていくばかりだろう。

何が言いたいのか。という答えを求めるばかりのヤワちゃんがいたらあえて伝えたいことがあるとすれば

オチは無い。

着地点は無いのである。


ひたすら落ち続けるしか無いのである。


落ち続けている内に手に残ったものを見てなるほどなとなれば今日の運勢は気分上場↑↑だろう。し、そもそも思考を垂れ流してるだけの川みたいな記事なので
沼にならない間は、流れをつくりつづけているだろう、そんな坂口。

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