価値観が崩れる話

浮気はしてほしくない。
するならバレないようにしてほしい。

そんな話を学生時代に女友達とした記憶があるけれど、実際に経験なんてしたことなかった。自分がするともしたいとも思わなかったし、何となく恋人を裏切るのは悪いことのような気がするし、バレたらどうするんだろうなんて他人事のように思っていた。


あまりにも子供っぽい私を大人の女にすることがEの望みだったのだろうか。私とどうなりたかったのか。
今となってはよく、わからない。

ただ、Eの好みは小麦色に焼けた肌と露出度の高い服装と、性に対して緩い女だった。
何もかも正反対の私は、厳格な父の元に育ち、母からは白い肌を褒められてきたこともあり、Eの発言全てが驚きの連続だった。
社会人となってから初めてした一人暮らし。初めてのカラオケオール。外泊、他人を部屋に泊める、朝帰り……。刺激的な経験の殆どはEが私にもたらしたものだった。
それでも最初のうちは楽しく、今までの自分の殻を捨てて新しい生活をしている気分になれて嬉しかった。
Eも、付き合ってすぐの頃は何となく同等と言うか、向こうが気を遣ってくれている感じがあった。しかし、3ヶ月経ち、身体を許したあたりからE好みになるよう色々なことを吹き込まれるようになった。

前回も書いたが、Eは会社のことを包み隠さず、何もかも話せる唯一の相手だった。噂好きな小さな会社の中で、全てを曝け出して話せる唯一の人となっていた。
更に、Eは7つも年上で、社会人としての優位性を強く訴えてきた。私がEの言うことに誤りがあるはずがないと思わざるを得ない状況に追い詰めていった。その中に親に会うつもりはない?と結婚を匂わすような話題を入れ込んできたりもした。
この間まで大学生で、初めてのラブホで緊張していたレベルの私には、全然ついていけない世界だった。

そんな中、私の中の価値観は大きく揺らぎ始めていた。
厳しい家庭で育ち、特定の彼氏がいるのに他人が気になるなんて悪いこと。そう思っていたはずなのに、緊張と威圧とで、自分の理想ばかり押し付けてくるE以外の男性に、私は癒しを求め始めていた。

よく話を聞いてくれたのは、Iという同期だった。非常に整った顔立ちをしており、家が近かったよしみでEと付き合う前から時々、夜のドライブに連れて行ってくれていた。
Iには学生時代から付き合っている彼女がいるが、お互い長続きのために浮気などには頓着しないスタンスなのだそうだ。俗にいう、「私に分からないならいいよ」という彼女らしい。


あれはまだ真冬の、寒い夜。
夜景を見に連れ出してくれたのはIだった。車を飛ばして、高台の公園から自分が住み出して1年も経ってない、愛着なんて全然湧かない街を見下ろした。
途中、ドライブスルーができるスターバックスに寄ってくれた。暖かい飲み物がないと辛いよ、と笑ったIに対して女慣れしているなぁとだけ思った私はフルーツクラッシュ&ティーを選んだ。
Iはスマートにお金を出して(Iの分と合わせても千円1枚で足りた)、私は両手で紙袋を受け取って、しばらく車は走り、そのまま真っ暗な駐車場に滑り込んだ。

黒のスカイラインはすっかり闇に溶けてしまい、私は紙袋を抱えたまま同じく黒いIの背中を追いかけた。Iは、Eと違ってわざわざ助手席のドアを開けたりしなかった。
ただ、私の足音に気付くと足を止め、ポケットから出した手袋のない手で紙袋をひょいと引き上げた。

階段を上がり、似たようなカップルがポツポツいる芝生を歩き、1つのベンチに座った。
寒いから暖かくしてきなよ、と言われてぐるぐるに巻いたマフラーだったが、冷たい椅子に思わず縮み上がった。
浅く座り、お腹痛くなりそう、と呟いた私にIは笑ってホラ、と暖かいカップを差し出した。
お互い忙しく、上司に恵まれてないことを風の噂で聞き知っていたのでポツポツとこの会社で頑張っていけるのだろうかというようなことを話した。
特定の人物の悪口や愚痴ではなくて、漠然と、この先も社会人をやっていけるのだろうか、という不安を零しあった。Iは白い息をほう、と吐くとすぐに「まぁどうにかなるっしょ」と小さく笑った。あんたの代はみんなダメね、と薄ら笑いを浮かべたFが、Iの指導を任されてる男が「Iはすぐヘラヘラして、軽く、意味を理解しているのか分かりかねる」と酒の席で零していたと広いオフィスでわざと大きな声で私に話してきたことをぼんやりと思い出した。

隣でカップの中身をすするIを真似て暖かい紅茶を飲みたがったが、猫舌の私は手袋越しの暖かさを感じながら、トラベラーリッドの小さな穴にふうふうと息を吹き込むことしかできなかった。
注文の時、チラと私を見たスタバの店員は、こんなイケメンならもっと良い彼女が作れただろうにと思ったに違いない。そんなことを考えていた私は、Iが何を注文したのか聞きそびれてしまったことを思い出していた。
やがてコト、とカップを置く小さな音がした。
それでも、私は正面の、あまり綺麗ではない夜景を眺めていた。身動ぐ気配があったあと、寒い?と私の左こめかみあたりに声がかかった。
小さく頷くと、カップを両手で持ったまま一口も飲めていない私の、丸まった背中を撫でた右手がそっと肩を抱いてくれた。

ぼんやりとEを思い出しながら、今度のクリスマスプレゼントは満足されるだろうかと考えていた。


それから暫くして、初夏と呼べるような季節になっていたと思う。GWを過ぎ、まだ梅雨になる前。
私は仕事終わりに既に何度か「同期だから」という理由でIと夜ご飯を共にしていた。
それはバーミヤンとか、ガストとか、サイゼリヤとか。社会人1年目でお金のない一人暮らし同士の2人はそういう色気のないお店で夜ご飯を食べ、割り勘と言いつつ200円くらい多く出してもらいながら、相変わらず付かず離れず漠然とした不安について話したりしていた。

この頃、Iは私に彼氏がいることを知っていたが、その相手が誰かまでは知らないでいた。もしかしたらそういう風に振舞っていてくれただけかもしれないけれど。
GWを過ぎても私はEと距離を置いたまま、恋人という関係にいた。余談だが、Eは諸事情で春になる前に転職しており、忙しかったのか会う頻度や連絡を減らしても変に目立つことはなかった。

話は戻り、確か、Iが部屋にスピーカー搭載のシーリングライトをつけたと話してくれた。Bluetoothで、天井から好きな音楽を浴びながら過ごせるというのだ。いいなぁ、とテンプレみたいな反応をした私は、聞きに来る?と尋ねるIの車の、助手席でシートベルトを締めながらIが良いなら行く、と答えた。
夕飯は終えた。少し暑い夜、招かれた部屋で珈琲を振舞われ、オレンジの照明の中2人でジャズを聴いた。
Iは楽器をやっており、そういう音楽が好きだった。

先にシャワーを借りて、ベッドの上で膝を抱えた。寝た?と聞かれ、寝てない、と答える。
ドラマみたいに髪から滴る雫をタオルで拭いながらベッドに腰掛けたIは、ギッとスプリングを鳴らして、片手で私の顎を掴んだ。
あ、彼女がいてもキスしてくれるんだあ、優しい。そう思って、目を閉じた。

#恋愛 #社内恋愛 #浮気

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