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お寺は生き残っていけるか

地方の一僧侶の現状

最近「寺院消滅」という本を読みました。
鵜飼秀徳(うがいひでのり)さんというお寺出身の記者さんが書かれたものです。

「お寺が消滅する」
「お寺は生き残っていけるのか」

こういったタイトルの本はやはり気になります。

鵜飼さんは、本書の冒頭に

「代々、寺だけでは食べていけない貧乏寺出身の私は、サラリーマン記者をやっている」

と書いていますが、私のお預かりするお寺も小さなお寺なので、ホームヘルパーやチラシ配りなどを様々なアルバイトを私もしてきました。今は新聞配達をしています。サラリーマンはサラリーマンの辛さがあると思いますが、会社員の安定は羨ましくも感じます。

お寺の収入は少ない時は月7万円ということもありました。やはりコロナ禍でお参りは減りましたし、そこから給料をもらうわけですから、経済的に安定しているとは言い難いものがあります。

声を鍛錬し、他のお寺さんに必要としてもらい、お葬式やお寺の行事などで声をかけていただく。またはお話の勉強をして法話会に呼んでもらったりしていくことが一つ理想ではありましたが、コロナ禍でお寺の行事の縮小、葬儀の縮小がかなり進んでしまったということがあります。

何度も普通に働きたいと思いましたが、どのお寺もそうですが忙しい時期もあります。

皆さんがご想像する「お盆」や「彼岸」もそうですが、私が属する浄土真宗大谷派ではこの期間に「棚経」として各家庭にお参りに伺う習慣はありません。うちの場合はそもそも門徒さんが少ないので、この「棚経」があってもそこまで忙しくはなりませんが。

ですが浄土真宗には「報恩講」という時期があります。
浄土真宗の宗祖である親鸞聖人のご命日に合わせて、各家庭へお参りに行きます。

親鸞聖人のご命日は11月28日とされていて、私の場合は11月中頃から12月初旬まで、

〇〇町は11月20日
〇〇町は11月23日

という具合に1日に数件~30件、町ごとにお参りに行く風習があります。(昔から日は決まっています)
うちの門徒さんではありませんが、後ろについて一緒にお勤めをするお役目をいただいています。

父は昔、兼業をしていて、地域の公民館に勤めていました。この時期に有給の全てを使っていて大変そうでした。どうしても時間のやりくりは大変になります。

そのような時期は他の仕事もすることは容易ではありません。当然ですが、以前より、どの仕事でも他の仕事で穴を空けることは厳しくなっていると聞きます。

また、葬儀が入ると枕経~葬儀が終わるまで忙しくなります。時間的にもそうですが、やはり葬儀を通してこれまで仏教が伝わってきた意味、故人との縁を感じていただきたいので、「枕経」や「通夜」や「中陰」の法要でする法話をずっと考えています。

平生、違う仕事をされながら、この葬儀をきちんとされている方もおられるとは思いますが、かなり大変です。

忙しい時期も含めても、収入はサラリーマンの平均年収より少ないですが、アルバイトや妻のパート収入などもあり、やっていけないわけではありません。

お寺で仏教のことを学びながら、出来ることを探しているという状態です。

直葬は故人との場を疎かにしているわけではない

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遺族が病院や施設で遺体を引き取り、すぐに納棺し火葬場へ直行する。
そして火葬場で待ち合わせた僧侶が短いお経を読んで、「それでは失礼します」と言って足早に去っていく。「釜前読経」という言葉が本書で紹介されています。
一般的には「直葬」という言い方のほうがされるかもしれません。

こういう「直葬」や「釜前読経」という言葉が一つにされ、儀礼の簡素化を表す言葉になっていますが、例えば「直葬」でも火葬場でだけ読経をするだけとは限りません。

「通夜」や「葬儀」はしませんが、自宅でお参りをして、それから火葬場に行って、また自宅でお参りをする。懇ろにお参りをされる方もおられるのです。

亡くなられた方が単身で住まれていて、遺族が皆遠方に住んでいる場合は「釜前読経」のみになることもあるでしょうが、その後お寺に供養をお願いしたり、お墓に納骨してお参りに行ったり、皆が供養を疎かにしているというわけではないのだと私は思っています。

今、世の中でこういった仏事が衰退していくという本が出ている傾向ではありますが、私のいる石川県のような地方ではお寺や仏事を大切に思ってくれる方がたくさんおられます。

このままではいけないことは僧侶も皆分かっていますし、出来るだけ「釜前読経」のみにならないよう遺族の方と話してお参りの場を大切に思っていただく努力をしている僧侶はたくさんいます。

従来たくさんの人がお参りに来るから、お葬式にかかるお金も大きくなっていきました。人付き合いが減ってきている今、お金のかからない方法を選んでいくことは当たり前のことです。

仰々しくお金をかけてやらなければいけないのが儀式ではありませんし、簡素化した中でも故人との繋がりを感じられる場があれば良いのです。

仏事はそういう役割を果たしてきたし、これからも果たしていけると私は思っています。

しかしお参りが縮小していく中、もっと私個人として、そしてお寺として出来ることをやっていかなければ、「寺院消滅」が現実味をさらに帯びてくることも間違いのないことだと思います。

お寺の未来は暗いのか

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本書のタイトルも

「『寺院消滅』~失われる「地方」と「宗教」~」

とあるように、お寺や宗教の未来はどうしても暗いイメージが付きまといます。過疎化やお墓の後継者不在、宗教トラブルの話は尽きることがありません。

目を引くタイトルにもなります。

実際にどうしようもならない場所もあるのだと思います。人口が減っていく場所には、「寺院」のみならず他の様々な仕事も存在することが出来なくなります。

しかし、本書の第二章にも載っていますが、頑張っている僧侶もたくさんいます。

駅前でのビラ配りやお葬式の雰囲気作りなど努力をし、今ではたくさんの方から必要とされるようになった方、勉強を重ね、周りのお寺の反発にあいながらお寺の在り方を根本から見直されている方、様々な方がおられました。

大変な苦労もあったと思いますが、そのような方々にスポットを当てれば、未来は暗くは見えません。どの部分にスポットを当てて見ているか、そこに尽きるのでしょう。

私も口で言ってばかりいないで、皆さんの活動を参考に、地域や門徒さんに必要とされる場を作っていかなければいけません。

このように頑張っている方々の後に、今の私にスポットを当ててみると、人がいないわけではなく、お参りを大切にして下さる方々がいる環境です。私の頑張りが足りていない、それだけなのかもしれません。

本書の最後に、作家で元外務省の主任分析官の佐藤優さんの解説が載っていますが、その最後に、

「日本で1500年近くの伝統を持ち、明治維新直後の廃仏毀釈の危機を乗り切った既成仏教教団が、都市化や少子高齢化如きに負けることはないと確信している。」

と書かれています。仏教が消滅するのは時代のせいではなく、僧侶が布教をやめたときなのだと思います。


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