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スタジアム

 プロ野球を初めて肉眼で見たのは、1975年(昭和50年)9月9日、小学校6年生の時だった。当時広島に住んでいた僕は、なぜか前年優勝のドラゴンズファンであった。広島にはカープという市民球団があり、貧乏で弱かった。ところがである。その年、カープは急に強くなり、小学校でも話題はカープの話ばかりになっていた。前年まではプロ野球の話題なんて全く出たことなかったのに。
 それで僕も家族で野球観戦に行くことになった。もちろん中日戦である。三塁側ベンチに青いCDの帽子を被って座り、密かに応援した。周りはカープファンばっかりだったから。
 この日広島が優勢だった。近くで座っていたおじさん2人はさっきから会話を聞いているとどうもドラゴンズファンのようであった。「木俣が何で出らんのや。木俣を出せ」といっていた。試合前のベンチ入り選手の発表で木俣が入っていなかったことを覚えていた僕はそのおじさんに「木俣はベンチに入ってないですよ」と教えてあげた。「そらいかんがや」と答えたので名古屋の人だとわかった。その日、捕手は新宅であった。
 結局カープが勝つのだが、帰りの渋滞が嫌だったのか、9回終わる前に帰ろうと母さんが言ったので、最後までみずに帰ることにした。
 次の日の試合、ドラゴンズが勝ったが、最後、三村と新宅がホームでクロスプレーとなり、ファンまで大勢グランドに降りてきて大乱闘となった。歴史的大事件になった。その日に行けばよかったと残念であった。
 冒頭、球場に初めて行った日をしっかり覚えていたのは、上記のためである。
 結局この年カープが優勝した。優勝は後楽園球場でだったが、ファンがグラウンドに入ってきてわやくちゃになっていた。
 閑話休題、後楽園球場も今はないが、客席の急斜面が怖くて階段を歩く時、テスリを離せなかった記憶がある。その分臨場感はあったけど。
 話はそれたが、カープはその後も優勝を数回した。市民球場にはその後、父親といったり、中学生になると友達といったりした。汚い球場であった。今も覚えてる垂れ流しのトイレ、壁の石垣に向かっておしっこするのである。座席は毎年綺麗にしていたが、全体的には古くて老朽化していた。ただ今思えば自然芝の何ともいえぬ味わいがあった。
 最後に市民球場に行ったのは1986年(昭和61年)10月27日日本シリーズでは歴史上初めての第8戦、広島ー西武だった。丁度広島にいて暇だったので、独りで行った。この日が山本浩二の最後の試合になる。
 三塁側の内野の一番奥ブルペンの中が見える場所がだいたいいつも座る場所である。レフトの山本浩二も身近に見えた。
 西武が工藤の活躍で勝った。僕と同じ歳である。すごいなあ、俺も頑張らねば、と勇気をもらった。森監督の胴上げが静かに行われた。ビジターだからこんなもんなのだろうが、優勝したにしては淋しい胴上げであった。球場で胴上げ見るのは初めてのことだったので、TVではアップで映すから盛り上がってみえるだけなのかもしれない。
 優勝が決まった瞬間、グランドに一番近い金網のほうにいた僕に向かって後頭部を幾つも殴られた。誰だ、と思って振り返ると、紙テープを投げた西武ファン達だった。紙テープの芯が後頭部を直撃したのであった。
 森監督の胴上げが終わると今度は山本浩二がチームメイトに胴上げされた。引退するのである。彼のカープでの功績は大きい。ドラゴンズファンの僕とはいえ、高校の先輩に当たる浩二の最後の姿を見ておきたかった。
 それから広島市民球場で僕は野球を見に行ってない。
 
 2010年(平成22年)広島市民球場はその役目を終えた。その跡地は侃々諤々カンカンガクガクどうするか議論が沸騰する。サンフレッチェのスタジアムにすればいいのに、アクセスもいいし、などと僕は思っていたのだが、世界遺産のすぐそばにサッカー場はどうもね、なんて意見も出たりして、じゃあ野球はよかったのかよ、なんて話になったりして、二転三転の結果中央公園芝生広場の隣に広島スタジアムが2024年(令和6年)完成予定ということになった。サンフレッチェのホームグラウンドだ。完成したら一度は見に行きたいと思っている。
 

 

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