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三郎さんのお通夜

 三郎さんは75歳、今は家で寝たきりになっていた。ところがある時、三郎さんが目を覚ましてみると、妙に体が軽い。昨日まで布団の中で寝返りさえうてなかったのが噓のようだ。三郎さんは目を開け起きだした。
 すると妙な光景が目の前にあらわれた。女房の春子はもちろんのこと、今は遠くで暮らしている息子や娘、その他親戚一同がみんな集まっているのだ。
 三郎さんは正月でもないのにな、と不審に思ったが、見舞いに来てくれたのだろうと簡単に考えようとした。それにしても今は夏だというのに、なんでみんな黒い服を着ているのだろう。それに台所のほうでは、息子の嫁や近所のおばさんたちが集まって忙しそうに何かをしている。これはなんだ。まるで通夜ではないか。
 えっ、まさか。
 三郎さんはぎょっとした。うしろをふりかえったのである。そこにはなんと葬式用の飾りがちゃんとしてあり、その下には棺桶があり、そしてその中にはなんと自分が横たわっているではないか。
 オレハ、シンダノカ。
 まさか。
 夢かもしれないではないか。めずらしくこんなにぴんぴんしているというのに。
 冗談ではない。俺はここにいるぞ、と三郎さんは大声を出した。しかし誰一人その声に気づく者はいない。
 三郎さんは三つ年下の女房、春子に声を掛けた。だが反応はない。だんだん三郎さんはあせってきた。と同時にひどく腹が立ってきた。
 三郎さんは春子を右手でなぐった。だが右手は春子の顔をすり抜けて空振りした。信じられぬ出来事だった。
 三郎さんは何も言えず、ただ驚くだけである。しかしそれでもあきらめない。席を立ってトイレへ行こうとする息子の健司を見つけると彼はそのあとをついていった。そして前に立ちはだかり「おれだ」と叫んだ。
 だがそれもむなしかった。健司は三郎さんの身体を通り抜けトイレの戸を開け、中に入ってしまったのだ。
 三郎さんの頭の中はあせりと怒りと恐怖と淋しさ、そして驚きと絶望感が、いっぺんに入り込み、整理がつかなくなってしまった。
 三郎さんは次々に人をかえ、表現をかえ、自分の存在をわからしめようとした。だがどれも失敗した。
 とうとう三郎さんは蝋燭のついている灯籠をひっくり返して、みんなの注意を引こうとした。
 それはなぜか成功した。たおれた灯籠は燃え、それが畳を焦がした。その場にいた人たちはみなびっくりしたが、三郎さんの弟で今年70歳になる五郎がおしぼりで火をたたいて消した。あいかわらず三郎さんの存在は誰も気づかない。
「風もないのに変ねえ」
とだけ、三郎さんの娘で一男一女の母である敦子がそういった。
 三郎さんは親不孝者め、とつぶやいたが、誰にも聞こえない。
 三郎さんは家を出た。家の者たちが誰も気づかないのなら、せめて仲の良かった友達のところへ行こう、ひょっとしたら誰か気づいてくれるかもしれないと思ったのだ。
 三郎さんは家から三駅離れたところに住んでいる友人のところへいった。行くのはあっという間だった。奴の所へ行く、そう思うだけでいけたのだった。
 あいにく友人は留守だった。家族の話を盗み聞きしたところによると、どうやら三郎さんの家に向かってるらしい。しかたないので、三郎さんはもっと遠くに住んでいる友人を訪ねていくことにした、。
 東京に学生時代から仲の良かった奴がいた。そこに行こう。そう思っただけで、三郎さんの体は一瞬のうちに東京へ着いた。幸い友人はいた。だが家族と同じことだった。何をしても気づかない。三郎さんは疲労感を覚えた。
 三郎さんは家に戻ってきた。全て一瞬のことである。そして家じゅうの部屋を歩き回った。しかもわざとさわがしい音を立てるように歩いた。だが音はしなかった。少なくとも家に集まっている誰も聞かなかった。
 三郎さんはガッカリした。これが夢ならいいな、と思った。
 気落ちした三郎さんは、みんなが集まっている部屋から一番遠い、昔健司が使っていた部屋に入った。今は誰も使ってない部屋だ。扉はしまっていたが、あっさりと通り抜けた。
 中は暗かった。布団が三つ敷いてあった。枕のほうを覗いてみると、そこには健司の子供と敦子の子供が寝ていた。三郎さんの孫たちだ。
「よく眠ってるわい」
 彼らの寝顔をみると、少しほっとしたようで、三郎さんはその場に座り込んでしまった。
 しばらくすると敦子の娘で、今年7歳になったばかりの明美ちゃんが目を覚ました。
 三郎じいさんは明美ちゃんに向かってほほえんだ。その時である。
「おじいちゃん」
 明美ちゃんは確かにそう呼んだのである。三郎さんの存在を認識できたのである。つまり三郎さんが見えるのだ。
 三郎さんは半分あきらめかけていたので、驚いた。だから明美ちゃんの言葉にうろたえてしまった。
「おじいちゃん、死んじゃったんじゃなかったの」
 明美ちゃんが聞いた。
 三郎さんはやっとのことで答えた。
「おじいちゃんにもよくわからないんだ」
「おとうさんもおかあさんも、おじいちゃんは死んだっていってるよ」
 明美ちゃんはまだ眠いのだろう、目をこすりながらそういった。
「でもおじいちゃんはここにいるよ」
 三郎さんがいった。まだ自分の死を受け入れられない自分がいた。
「でも今夜はお通夜だって。明日はお葬式なんだよ」
 明美ちゃんは布団から完全に這い出してきていった。
「明美ちゃんはじいちゃんが死んだほうがいいのかい」
 明美ちゃんは黙って首を横に振り
「でも今日と明日、明美はおじいちゃんが死んだからって、学校でお休みをもらったの」
 といった。そして三郎さんにはつらいひとことをいった。
「やっぱりおじいちゃんは死んだのよ」
 三郎さんは愕然とした。
 恐れていたことを孫の口からいわれた。やっぱり俺は死んだのか。孫にいわれちゃあ、信じないわけにはいくまい。
 しかしもうショックはなかった。別にこの世に未練があったわけでもなかった。幽霊となった自分を誰も気づかず、最後に孫が気づいてくれた。それでいい、と思った。
「わかったよ。それじゃあじいちゃんは天国とやらにいくことにしよう」
 そう明美ちゃんにいうと、何だか安らかな気持ちになってきた。
 三郎さんの体はだんだん明美ちゃんの前から消えてなくなりだした。明美ちゃんは消えゆくおじいさんに「天国でしあわせにね」といった。
 三郎さんはその言葉が何だか天使のことばに聞こえた。そして明美ちゃんに向かって「さよなら」とこたえた。
 三郎さんは完全に消えてしまった。明美ちゃんは三郎さんを見送ってしまうと、おかあさんである敦子にこのことを報告するため、部屋から飛び出していった。
 それは明美ちゃんにとっては忘れられない幼年の思い出となった。

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