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リモートワークで儒教的倫理が要らなくなってきた

儒教とは、仁義礼智信という徳義を表す「五常」、父子・君臣・夫婦・長幼・朋友の関係を重視する「五倫」を中心とした教えです。日本の文化に深く根ざしています。

古い業界で働く身ですが、こんな業界でさえもリモートワークを始めたら社会が変わって来ました。そこで実感するのは、今までは"儒教の教えを維持するコスト"がとても高かったのだ、ということです。


まず五常の「礼」ですが、古い会社によくある「朝"礼"」がなくなりました。皆んな在宅だし、大きな声を出すのは感染リスクがあるので。

ミーティングもwebなので、初対面でも名刺交換がなくなりました。同時に名刺交換時の意味不明な"マナー"も消滅します。

服装も、接する相手に対する礼を維持するためだけのものだったことがはっきりします。接触自体がないので、いらない。

顧客への季節のご挨拶のためだけの出張、というのも見直されていくのでしょう。そう考えると、礼って何だったんだろう。


上司部下や先輩後輩などの関係維持のコストも、大きいです。オフィスでは、この関係を維持するために「ショートコント・会社」みたいなことが行われていた気すらします。今は、どんなに偉い人でも、平等な大きさで画面の一角に写っている。


これまで、なぜ礼や秩序を重んじる儒教的倫理が大事にされてきたのでしょう。

おそらく「情報がオフィスでしかアクセスできなかったから」だと思います。紙の情報や端末はオフィスから外に持ち出せなかったので、人の方がわざわざ電車に乗ってオフィスに来てくれた。人が密集すると相隣関係の維持が大変なので、儒教的倫理が便利だった、というだけだと思うのです。

でも今は、必要な情報は自宅から十分取りに行ける。それだけのこと。コミュニケーションのツールが変わるだけで人の倫理が変わってしまうのだから、ツールの変化のインパクトの方が大きいのです。

明治維新の当時、儒学から洋学に乗り換えた福澤諭吉は「文明論之概略」のなかで、"あたかも一身にて二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し"と表現しました。変化のスピードの早い今の我々は、その同じ経験をなぞっているようにも感じます。


では、人とリアルに会う必要性は無くなってしまったのでしょうか。そうでもないようです。

久しぶりに出勤すると、いつも顔を合わせていた会社の人と「久しぶりー」という謎の挨拶をしますが、久しぶりのその人が、何か面白そうなことをやっている。そこから新たな発見があったりして、「弱い紐帯の理論」がオフィスで展開されます。

この、知り合いがランダムにふらっと出入りする感じは、あれだ、"部室"とか"たまり場"です。このオフィスの役割に新たに付加された「部室機能」は、今後も機能発揮するものと思います。

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