見出し画像

庚申塔の魅力とは。浦和の街歩きの楽しみ

古い街並みに残る防火水槽を探して回るブログをやっていたので、荒川防火水槽研究会という名前です("荒川"は当時荒川区に住んでいたから)。昔の木造家屋の脇などに「防火用水」と書かれた、石やコンクリートでできた古い水槽を見つけたことがある方もおられると思います。

画像3

これまで東京や大阪を中心に300個弱を発見してきました。さすがに最近は新規に見つかる防火水槽は少なくなりましたが、今も「昔の街並み」「古いもの」「石でできたもの」が好きです。

縁があり、今は浦和に生活の拠点があります。街を歩いていたある時、与野の針ヶ谷という場所で、子鬼みたいな像を見つけます。何これ?

画像1

この古くて石でできたものは、調べてみると庚申塔(こうしんとう)というものに彫られた青面金剛像(しょうめんこんごうぞう)でした。

以下引用します。

"道教では「人の腹には三匹の虫が棲んでいる」といい、それを「三尸虫(さんしちゅう)」と呼びます。この三尸虫は「隠している過去を知り、六十日毎に廻ってくる庚申の夜に、人が睡眠すると身体から抜け出して天に昇り、その過去の罪悪を天帝に告げる」ことで生命が縮まると信じられていました。
よって、庚申の夜には三尸虫が天に昇らないために夜通し、眠らずに飲み食い、昔話などを語っていました。さらに六十年に一度来る庚申の年に「供養塔」を建立しました。

青面金剛は病魔や災難を除くインドの神です。六本の手を持ち、頭部に蛇を巻き付けています。古い形態は中央二手は合掌し、直立した静的な姿ですが、次第に足を踏ん張り邪鬼を踏みつけ、身をよじり、左手でショケラと呼ぶ上半身裸の女人の髪をつかみ、右手には剣を握る動的な姿に変わります。他に、月や二鶏、三猿が彫りこまれます。

庚申の夜は「申の日」から始まり、「酉の日」に及ぶので酉と猿が庚申に結び付いたと言われています。酉は鶏で時を告げる神聖な鳥です。
三猿は「見ざる、聞かざる、言わざる」のたとえであり、三猿を三尸虫になぞえ目、耳、口をふさいで悪事を天帝に告げないものです。" 

 (引用終わり)

・・・つまり、庚申信仰とは夜通しパーティをするための口実か?

浦和のパルコの中にあるさいたま市中央図書館で調べると、浦和や大宮近辺には、多数の庚申塔が残っていると判明。Google Mapにはどなたか親切な方が、庚申塔の場所を登録して下さっていました。

これは見て回りたい!

ということで、これまでさいたま市、蕨市、北区赤羽などでこれまで68件の庚申塔を見てきました。半径7キロ位のなかに、これほど多く残っているのが驚き。デザインも様々で楽しいし、何より多くの塔が、今も地元の方に大事に扱われているのが嬉しいです。


多くを見ているうち、デザインや場所に特徴があることがわかります。見てきた庚申塔の情報を整理すると、以下のことがわかりました。

1 制作は江戸時代

側面などに彫刻されている制作年月を読めば、いつできたかが判明します。最も古いのが1669年、新しいのは1817年(明治の制作を除く)。150年もブームが続いていたということですね。

2 お寺などに置いてある

全体の半数はお寺や観音堂、薬師堂、地蔵堂などにありました。これは、もともとそこにあったというより、寺などに移設されたものが残っているということでしょう。北浦和の廓信寺にある庚申塔は、もとは中山道の北浦和駅近くにあったことがわかっています。

3 菩薩、文字と青面金剛像

デザインは、地蔵菩薩(4%)、文字(35%)、青面金剛像(53%)に分かれます。制作年を見ると地蔵菩薩は平均で1670年とダントツに古い。初期は地蔵菩薩だったようです。

4 まだ講が存在する!

庚申塔に設置された解説などによると、桜区の栄和第二庚申講、栄和下庚申講、また大宮の上小町では、まだ庚申講が続いている模様。300年近く続いている計算になります。


最後に、最もお気に入りの青面金剛像の写真をどうぞ。北浦和駅と与野駅の間、新中里という場所の住宅街の中にあります。カッコイイ。

画像2

身近に、江戸時代の暮らしや習俗を感じられるタイムカプセルが残っているのを知るのが、街歩きの楽しさのひとつです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?