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葉桜の日
僕がサラリーマンになったのは、2浪1留と長い学生時代をやっと終えた25歳だった
世の中はまだぎりぎりバブルの熱に浮かされていて内定は簡単に取れる時代
しかし、僕と言えば就活生であるにもかかわらず、就活をやる気が全くなく、夏休みに帰省した大阪のゼネコンでやっと一つ目の内定が取れただけ
その後は面倒だからやらなかった
まああんな社会を舐めたような言動をしている2浪1留生は取らないのもわかる
そんな25歳の僕は、卒業式には3月末からの新入社員研修のため不参加
4月になり難波で働くこととなった
この会社は古い体育会系で、1年目は必ず寮に入らないといけない
退勤後、寮へ帰る前に大阪球場の跡地にあった古本屋街をぷらぷらするのが日課になった
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そんなある日、僕が目にしたのは鷺沢萠さんの少年たちの終わらない夜だった
その装丁の美しさに一目惚れして購入した
少年たちが瑞々しく描かれていたように思う(もうほぼ記憶にない)
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僅か半年あまりのサラリーマン時代だった
僕は次に受験専門の塾講師を3年
そして29歳で麻雀店の経営者となった
その頃、鷺沢萠さんを近代麻雀の誌上でお見かけするようになった
麻雀が大好きで渋谷のフリー雀荘に足繁く通われていたそうだ
僕は雀荘経営をしているうちに青雀旗という学生麻雀大会の運営を手伝うようになっていた
予選大会は上六の天山閣
本戦は梅田のオーバルホール
その本戦に鷺沢萠さんがいらっしゃっていた
正直驚いた!
25歳で初めて作品を手に取り、それから数冊読んできた
これをファンと言っていいなら、僕は鷺沢萠ファンだ!!
ただ、声をかける勇気のない僕は、何度か彼女の近くを通ったが、一言も話すことはなかった
その後鷺沢萠さんが亡くなったニュースが飛び込んできた
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葉桜の頃になると、あの日あの時あの場所で巡り合いながら声をかけなかった自分の不甲斐なさを思い出す
若かったと言えば若かった
声をかけていたら、彼女の未来が変わっていたのでは!?
そんなことは烏滸がましくて思わないが・・・
彼女が生きていたら、どんな作品を書いていたんだろうか?
今のMリーグをどんなふうに見たんだろうか?
花曇りの朝にそんなことを思った
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