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【沖縄戦:1945年6月25日】第一護郷隊の「不還作戦」 本部半島の住民、大浦崎収容所へ強制移動

第1護郷隊の「不還作戦」

 沖縄北部で遊撃戦を展開していた第3遊撃隊(第1護郷隊)村上治夫隊長は、現在の名護市の多野岳(タニヨ岳、村上らは「はぶ山」と称した)を拠点に少年兵を率いて米軍拠点への夜襲などの戦闘を展開していたことはこれまで述べた通りである。
 ところが、この日、村上隊長は特務班の無線を通じ、大本営発表による第32軍の壊滅を知ることになる。これをうけて村上隊長は、これまでの遊撃戦は手ぬるかったとして、7月1日を期して全員決死の総攻撃決行を決意した。村上隊長はこの総攻撃を「不還作戦」と称した。不還作戦そのものは27日、あるいは30日に出されたともいわれる。
 そもそも護郷隊副官の照屋規吉は「大本営から『全滅してもあと1年、後方攪乱せよ』との命令を受けていた」と証言しており、村上隊長はじめ中野学校出身諜報要員は、沖縄に着任し、第32軍司令部で

「私どもは、沖縄戦に参加するのが任務ではない。沖縄戦が終わって、第三十二軍が全滅してから、活動を始める。沖縄を占領したアメリカ軍の行動を偵知して、東京に報告するのが任務です」

(八原博通『沖縄決戦 高級参謀の手記』中公文庫)

とも発言したといわれている。護郷隊は地上戦中も遊撃戦を展開したとはいえ、第32軍壊滅を知り、新たな攻撃を企図し作戦を展開するのは当然だった。
 一方で決死の総攻撃という作戦については、やはり護郷隊の任務は遊撃戦であるとの周囲の説得もあり、村上隊長は決死の総攻撃から秘密遊撃戦へ作戦を切り替え、戦闘を続行することになった。すでにこのころの第1護郷隊の兵員は、死傷や脱落により約3割に減少していた。
 この秘密遊撃戦は護郷隊員を家庭に帰し、態勢を整え、その後に攻撃を再興するものだが、途中で終戦を迎えたこともあり、はなばなしい戦果をあげることはなかった。

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沖縄の海岸を制圧した第6海兵師団第22連隊第3大隊L中隊の集合写真か 45年6月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号88-33-1】

大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊

 戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』や『名護市史』に記されている第1護郷隊山川文雄分隊長の証言をまとめると、村上隊長は25日、特務班の無線を通じ、大本営発表により第32軍の壊滅を把握したことになる。確かに大本営陸軍部戦争指導班「機密戦争日誌」には、この日「沖縄終戦ニ関スル大本営発表アリ」と記されている。

 昭和20年6月25日 月曜
沖縄終戦ニ関スル大本営発表アリ。襟ヲ正シテ自省自奮アルノミ。右ニ伴フ明日行フヘキ総理談又ハ告諭ニ付内閣ニ於テ討議ノ結果告諭トシテ発表スルコトヽナレリ。
  [略]

(『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6)

 なお第1護郷隊瀬良垣繁春分隊長の「陣中日誌」によると、24日には無線で第32軍の壊滅を把握したとあり、戦況の把握について一日の時間差がある。しかし、いずれにせよ、かなり早い段階で村上らは最新の戦況を把握している。どうして沖縄北部の山中にいた彼らがそのような重要情報に早期にアクセスすることができたのだろうか。
 そのカギとなるのは、村上隊長らと同じく陸軍中野学校出身の諜報要員による通信隊、戦史叢書にある特務班の存在である。特務班(通信隊)は正式には大本営陸軍部直轄特殊勤務部隊といい、秘密戦、遊撃戦要員とはまた別に、大本営から直接沖縄に送り込まれた諜報部隊であり、沖縄の戦況を日々大本営に報告するとともに、防諜・宣伝・諜報などの任務を担った。そして彼らは沖縄で日本軍が壊滅してもなお生き延び、沖縄の状況を大本営に報告する任務を帯びていたのである。
 沖縄島に配置された特務班は「剣隊」と呼ばれ、現在の名護市の一ツ岳に潜伏し、一日に数回、沖縄の戦況や米英軍機から漏れてくる無線を傍受・解析し、大本営へ送信していた。特務班は宮古・八重山の離島にも配置されていたが、大本営はこうした諜報部隊によって最新の戦況を把握していたのであり、村上らも彼らとの連絡によって最新の戦況を把握していたのである。彼らが第32軍壊滅によって任務を終えることはなく、むしろこの日から彼らの本当の沖縄戦が始まったのである。

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キャプションには「10日目でやっと食べ物にありつけた沖縄の少女とその父親」とあるが、10日間全く食事がないなか、米軍に保護されようやく食事ができたということだろうか 45年6月25日撮影:沖縄県公文書館【写真番号79-02-1】

大浦崎収容所

 当時、本部半島には本部や今帰仁の住民とともに、伊江島や中南部から疎開してきた多くの人がいたが、6月17日および18日には今帰仁村謝名、越地以東に住む人々が羽地村の田井等収容所へ移動させられ、この日25日から27日にかけて謝名、越地の一部と平敷以西の人々が久志村の大浦崎収容所へ移動させられた。大浦崎収容所は現在のキャンプ・シュワブがあるあたりの辺野古崎周辺の収容所であり、軍政府はトラック50台を使って約2万人の住民を移動させた。
 人々は最小限の荷物しか携帯することを許されず、布団など大きな荷物はその場に廃棄させられるなどしたため、「このまま自分たちは海に捨てられるのか」と不安になったそうだ。
 大浦崎収容所のあった辺野古周辺は、昔から稲作がおこなわれている豊かな土地であり、琉球松などの緑地ときれいな海がひろがる場所であったが、住民たちが大浦崎収容所に連れてこられたころには、戦争で荒れ果て、赤土がむき出しの草木も生えないはげ山となっており、日本兵の遺体が転がっているような状態であったという。
 そして大浦崎地区を担当する米バイス大尉の命により、今帰仁、本部、伊江、さらにそこで元の字や班に住民がわけられ、区長や班長が置かれ、戦後の行政の原初的なものがスタートしていった。
 もちろん大浦崎収容所での生活は楽ではなく、住み家は当初は米軍支給のテント、その後に自分たちで掘っ立て小屋をつくったという。トイレなどの整備も充分ではなく、ウジやハエが大量に発生する不衛生な状態であった。また食糧は米軍の配給があったが最低限のものであり、栄養状態もよくなく、人々は飢えとの戦いを強いられたのであった。さらに夜は日本兵が紛れ込み食糧を求めたり、あるいは昼間は女性は米兵に襲われるなど、住民に安堵の日々が訪れることはなかった。

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大浦崎収容所に収容された住民と人々が建てた掘っ立て小屋:沖縄県公文書館【写真番号108-11-2】

参考文献等

・戦史叢書『沖縄方面陸軍作戦』
・『沖縄県史』各論編6 沖縄戦
・『沖縄県史』資料編23 沖縄戦日本軍史料 沖縄戦6
・『名護市史』本編3 名護・やんばるの沖縄戦
・川満彰『陸軍中野学校と沖縄戦 知られざる少年兵「護郷隊」』(吉川弘文館)
・畠山清行『陸軍中野学校3 秘密戦史』(番町書房)

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小禄に設置された捕虜収容所 南部での戦闘が終焉を迎えるにつれ厖大な数の捕虜が連行され、収容された 捕虜収容所と大浦崎などの住民収容所はまた異なるが、非常に象徴的、印象的な写真である 撮影月日不明:沖縄県公文書館【写真番号12-55-1】